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神は、義をもってこの世界をさばくため、その日を定め、お選びになったかた――義なるキリスト・イエス――によってそれをなし遂げようとされている。父はだれをもさばかない、さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。(使徒行伝17:31、Ⅰヨハネ2:1、ヨハネ5:22)
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裁きの日については、非常にあいまいな漠然とした概念が一般に普及している。一般に考えられている見解は、偉大なる白い王座に座したキリストが地上に来て、自然の激動――地震・墓の開放・岩の粉砕・山の崩壊――のただ中で、聖徒と罪人とを地位に従って召し出し、裁きのためにその前に整列させる。
恐れおののく罪人は自分の犯した罪を審問されるために永遠の苦悩の深淵から引き上げられ、再び情け容赦ない永遠の滅亡に送られる。聖徒は罪人の悲惨と絶望とを目撃するために天から引きおろされ、再び自分の判決を聞き、天に送り帰される、というものである。
普及しているその説に従えば、すべての人は死に際して宣告と報酬を受けてしまっているので、一般的裁きと呼ばれているこの最後の審きは単に最初の裁きの繰り返しにすぎず何らの目的も見いだすことは出来ない。なぜなら彼らは、最終的変更出来ない決定は死に際して与えられると主張するからである。
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Is the
Day of Judgment
a 24-hour day? |
何十億の人々をさばくこの驚くべき仕事に当てられる全時間は、24時間である。最近ブルックリンの集会でなされた講演は、この主張を表明するものであった。それは、裁きの日の仕事に関する詳細を、たった一日という限られた時間内で完了するものとして示そうとしているように見えた。 |
Figurative
language
Parable of the
Sheep and Goats
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これは非常に幼稚な理解であって、霊感を与えられた神の言葉とは全く調和しない。それは羊とやぎのたとえ話(マタイ25:31~46)を余りにも文字通りの意味に解釈しすぎた結果、生じたものである。それは象徴的な言葉を文字通りに強いて解釈しようとする愚かさを実証している。
たとえ話というものは、単に多くの点で似ている何かによって真理を示そうとするものであって、決して真理そのものの正確な描写ではない。もし、これを文字通り解釈するなら、その裁きは、羊とやぎになされるものであって、人類になされるものでは全くないであろう。
さて、私達は、もっと聖書的であると同時に、もっと理論的な見解と、神の定めた偉大なる裁きの日の結果に目を止めることにしよう。理論的、聖書的結論は、すべてのたとえ話と象徴に一致すべきものであり、また確かに一致するからである。
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Judgment
includes a trial,
and a decision
based on the trial. |
裁きという言葉には、単に判断を下すという以上の意味が含まれている。それは審問に基づく決定と共に、審問そのものの観念を含む。英語の裁き(judgment)という言葉のみならず、原語のキリシャ語でもそうである。 |
"Day"
can represent
a period of time.
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日という言葉は聖書の中でも、一般的用法でもそうであるが、最も頻繁には12時間あるいは24時間を表わすのに使われるが、事実上、ある一定の限られた又は特定の期間を意味するのである。例えば私達は、ノアの日、ルターの日、ワシントンの日、というふうに使う。
同じ意味でも聖書の中では、神が天と地と創造された日(the
day that Jehovah God made the earth and the heaven)(創世記2:4)と書かれている所では、創造の全時間が一日と呼ばれている。――長い一定の期間、荒野における試練の日――40日間(ヘブル3:8、9)救いの日(Ⅱコリント6:2)報復の日怒りの日悩みの日――ユダヤ時代の終りの40年の期間、または、福音時代の終りの患難の40年間に適用される。
キリストの日裁きの日その日――メシヤが宣告と同様に審問を与えて、世界を義をもって裁き支配する、千年時代に適用される。その時のことはこう書かれている。彼は義をもって世界をさばき、その日が来れば祝福に満ちたただひとりの力ある方、もろもろの王の王、もろもろの主の主である方を出現させて下さるであろう。(使徒行伝17:31、Ⅰテモテ6:15)
裁きの日が広い意味における日として用いられていることを認めながら、なぜ、この裁きの日を12時間または24時間の一日であると考えることが出来ようか。正しい証拠も研究もなくただ伝統によって影響された推測であるとしか考えられない。
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There is more
than one Judgment Day
in the Scriptures. |
裁きの日に関して注意深く聖書辞典を調べ、その期間内に達成されるべき仕事の性質と範囲に注目する人々は、すぐにこの一般的見解の愚かさと、日という言葉を広義に解釈する必要性とを知るのであろう。 |
The
worlds first Judgment Day
was in Eden. |
裁きの日は一つ以上ある 聖書は、未来に来る偉大なる裁きの日について語り、その日には、人類の大多数が完全な試練と最終的宣告を受けることを示している一方、もう一つの裁きの日があり、その期間中に、一定の選ばれるクラスが試練を受けることをも教えている。
最初の偉大なる裁き(試練と宣告)は、最初に、アダムで代表される全人類が神の前に試練を受けた時、エデンで行われた。その試練の結果は、――有罪、不従順、命に価いしないものという判決であった。そして科せられた罰は死であった。
きっと死ぬであろう(創世記2:17)こうしてアダムにあってすべての人は死ぬのであるエデンでのその試練の時は、世界の最初の裁きの日であった。そしてその判事(エホバ)の判決は、その時以来執行され続けている。 |
Every funeral procession demonstrates the death sentence.
Death is
like a sleep;
Resurrection is like an awakening.
"Lazarus,
Come Forth!"
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神の怒りは、すべての不義な者に対しての天から現われる。
それはすべての葬式の行列に見られ、すべての墓がそれを証明している。それは、私達が経験するすべての痛みとうずきの中に感じられる。その痛みのすべては、最初の試練と宣告の結果であり、人類が最初、従順と神に似たかたちとを持っていた時に、与えられた命と祝福に、もはや価しない者とされた、神の義の結果である。
しかし人類は、偉大なる救い主がすべての人に提供した一人の犠牲によって、最初の宣告から回復されることになっているのである。すべての人は墓と死亡――滅亡――から救われる。ということは、死は完全な永遠の意味では、もはや死ではなく、むしろ一時的眠りであると考えられるべきである。
なぜなら、千年の夜明けには、命を与える者、救い主によって、すべての人は目覚めさせられるからである。にもかかわらず、キリストにある信者の教会だけは、この最初の宣告と罰から解放され、免れているのである。しかし、彼らの免除は、実際のものではなく、信仰によってそう見なされているだけのものである。
私達は希望によって救われているだけなのである。(アダムにあってこうむり、キリストにあって免れる)この罰から私達が実際に解放されるのは、私達が救い主に似た者として目覚めるに足るものとされる復活の朝まで経験することはない。
しかし、キリストにある神の寛大な計画の知識を持った私達が滅びから免れるという(世界はまだそれから免れないのだが)事実は、他の人が滅びから免れる未来の希望を持たないことを証明するのではなく、むしろその反対を証明しているのである。なぜなら、私達は神に対して、被造物の初穂だからである。
私達がアダムにある死から免れ、キリストにある命を得るということは、滅びのなわめ――死――から、神が子として認める人が持つべき命の自由に入ることを、他の救いを求める人々に先がけて味わうことなのである。性質の違いに関わりなく、自ら救われることを願うすべての人は、神が子達のために準備された異なった階段で死から命へと救われるのである。福音時代は、神の性質へ召される人々の命か死かの試練の日なのである。 |
Another
Judgment Day
has been provided.
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神は心変わりしたのか?
しかし、神は世界を裁く日を定められた。どうしてそれが必要なのか?神は心を変えたのだろうか?神は、最初の人間の試練と宣告が不当であり過酷であると結論を下したのだろうか?そして今度は世界の人類を個人的に裁くことにしたのだろうか?いや、そうではない。
もしそうだとするならば、私達は過去よりも未来に、もっと正しい試練と宣告を与えられるという保証を全く持っていない。それは、神が最初の裁きが不当であったと考えたからではなく、もっと好ましい状態の下に――すべての人類が罪とその結果とを経験した後に別の裁き(試練)を与えて最初の裁きの罰からのがれる道を提供するためであった。
神は、世界が創られる前から定められていたご自分の最初の計画を寸分も変更されたのではない。神は決して変らないこと、決して罪人を釈放しないことをはっきりと私達に告げている。神は正しくも宣告した罰を絶対に執行されるのである。そしてその完全な罰は、神自らが備えられた救い主、または代理人によって果たされたのである。――イエス・キリストは神のあわれみによって、すべての人のために死を味わわれた。
ご自分の命で、アダムとアダムに属する人類のために、あがないを提供した私達の主は、すべての人類に正当な新しい命を与えることが出来るのである。しかし、教会に対するこの命の提供は、犠牲の契約の下になされ(詩篇50:5、ロマ12:1)世界に対するそれは、新しい契約の下になされる。(ロマ14:9、ヘブル10:16、エレミヤ31:31)
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私達は更に、神が世界の人類にこの個人的試練を与える時、それは、判事としてのキリストの下に行われると告げられている。私達の救いのために、死に至るまで従順であったキリストに、エホバが栄光を与えられるからである。
キリストを王とし、救い主として(使徒行伝5:31)その貴重な地で買い戻したすべての人を死から回復し裁くことができるように、神はキリストを高く引き上げ、神の性質さえ与えたのである。神は、すべての裁きを御子に委ね、天上においても地上においてもすべての権力を彼に与えられたのである。(ヨハネ5:22)
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The Judgment
Day nothing to dread.
The character of Jesus guarantees
a just and
merciful trial. |
ご自分の命をあがないの代価として提供するほどに、この世を愛し、約束された未来の審判の時に世界を裁くべき人こそ、高められた栄光に輝くキリストである。そしてその目的のためにその使命を彼に委ねられたのは、エホバご自身である。
聖書に示された計画が、このようなものなので、恐るべきことは何もない。かえって、すべての人々にとって大いなる喜びと裁きの日を待ち望む根拠があるのみである。その判事の性質は、その裁きが正しく、あわれみに満ち、喜んで従う者が、エデンで失った最初の完全性を回復するまで、すべての人の弱さを正当に考慮するであろうことを保証するに足るものである。
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There will be
justice and relief for the oppressed.
Samson,
a Judge of Israel
Egyptian Slavery
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古代においては、正義を行い、しいたげられている者を解放するのが判事であった。例えば、主への反逆の故に敵の圧迫下にあった時、イスラエルは一度ならず主に立てられた士師によって救われ祝福された事実に注目すべきである。
しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわった時、主はイスラエルの人々のためにひとりの救助者――オテニエルを起こして彼らを救われた。主の霊がオニエテルに臨んだので、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出ると……勝ち……国は40年間の間太平であった。(士師記3:9~11)
だから、世界は長い間、サタンである悪魔の力と圧迫の下にあるけれども、自分の貴重な血ですべての人の罪のための代価を払いし者が、間もなくサタンの偉大な力と支配とを握るであろう。そして彼が、あがなう程に愛した人々を救い、裁くであろう。
すべての預言者の宣言は、この結論と一致する。聖書にこう書かれている主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。(詩篇98:9)
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The reign of Christ will be to
educate, train, and discipline man.
Adam forfeited life by his disobedience.
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この来たるべき裁きは、最初の裁きと全く同じ原理に基づくものである。全く同じ従順の律法が、同じ命の報酬と死の罰を伴って提示されるであろう。ちょうど最初の試練が始まり、進行し、宣告で頂点に達するように、第二の試練もそれと全く同じであろう。宣告は、正しい者には命、正しくない者には死をもたらす。
第二の試練は、第一のそれより好条件である。それは最初の試練の結果、得られる経験のためである。最初のそれと異なり、第二の試練は、すべての人間が他の人のためではなく、自分自身だけのために試されるのである。その時には、アダムの罪の故に、または、受け継がれた不完全性の故に死ぬ者はいない。
父がすっぱいぶどうを食べたので子供の歯がうくとはもはや言われない。すっぱいぶどうを食べる人はみなその歯がうく罪を犯した魂は必ず死ぬ(エゼキエル18:4、エレミヤ31:29、30)人はだれでも持たないところによらず、その人の持っているところによって裁かれるであろう。(Ⅱコリント8:12)
キリストの支配下に人類は次第に教育され、訓練され、そして遂に完全へと達するであろう。そして彼らが完全性に達した時、神との完全な調和が要求され、完全な従順に欠ける者はすべて、命に価いしないものとされて絶ち滅ぼされるであろう。アダムを通して人類に死をもたらした罪は、単に一つの不従順な行動であったにすぎないけれども、その行動によって、アダムは完全性を失ったのだった。
神は、アダムを完全な者として創造したからには、アダムに完全な従順を要求する権利を持っていた。こうして偉大な回復の事業が完成する時、神は、すべての人間に同じ従順を要求するであろう。
その時、ほんの少しでも完全性に欠ける者は、永遠の命を持つことは許されない。その時に、完全性を欠くことは、十分な光と能力に反して、意志的に罪を犯すことを意味する。
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十分な光と能力に反して故意に罪を犯すすべての者は、第二の死で滅ぼされるであろう。もし、この試練の間に、完全な光の輝きの下にさし出された恵みを拒絶し、百年間に完全性に向かって少しも進歩しない者があれば、彼は命に価しないものと見なされ、絶たれるであろう。その日のことは聖書にこう書かれている。
百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者はのろわれた罪人とされる。(イザヤ65:20)
このように、すべての者は、少なくとも百年間の試練を受けねばならない。もし進歩することを拒絶するほど頑固でなければ、彼らの試練は、キリストの日の全期間にわたって続き、その終りに頂点に達するであろう。
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The parable
of the sheep
and the goats |
来たるべき世界の裁きに関する結論は、黙示録20:15、21:8とⅠコリント15:25と(マタイ25:31~46)羊とやぎのたとえ話の中ではっきりと示されている。
これらに加えて他の聖句も、その終りには、二つのクラス――従順な者と不従順な者;神の律法の文字と精神に調和する者としない者――が完全に分けられることを示している。前者は永遠の命に入り、後者は最初の裁きでなされた同じ宣告、死――消滅(第二の死)に引き渡される。
最初の宣告は、あがないを提供して(死によって)その権利を獲得したキリストによって条件つきで、そこから解放されたが、これは第二の死であって、彼らにはいかなるあがないも提供されない。
従って、彼らの罪は、最も好意的な個人的試練の下に、十分な光と機会に反してなされる意志的な罪であるので、彼らのためには解放も復活ももはやないのである。
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Deeds
of the present
will receive
their just reward.
The Good Samaritan
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私達は、現在の人類の世界が持つ責任を無視しているのではない。その多少にかかわらず、またそれが自然の光であろうと、聖書の光であろうとにかかわらず、すべての人は光の程度に従って負うべき責任を持っている。
主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている神はすべてのわざならすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。(●言15:3、伝道の書12:14)
ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る(Ⅰテモテ5:24)主の愛顧を受けている小さき群以外には、まだだれも最終的罰、第二の死をこうむる程の十分な光を受けていない。
ここでは単に、世界の現在の責任の問題を口にすするにとどめて、その詳細については、後の考慮に譲ることにしよう。
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God has been
selecting
the future judges |
世界の最初の裁きの日と第二の裁きの日の間には約6000年の期間がある。そして、この長い期間の間に、神は二つの特別なクラスを人類の中から選び、世界の裁きの日は、神の栄光ある道具とするために、特別に試練を与え、訓練しているのである。 |
The House
of Servants
and
The House
of Sons
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この二つのクラスをパウロは(ヘブル3:5、6)それぞれ御子の家、僕の家と名づけている。前者はキリスト者の時代に試され、忠実な者とされた勝利者からなり、後者はキリスト者の時代以前の忠実な勝利者から成る。
この二つの特別な選びは、福音時代に続く時代に約束されている人類の世界の裁き、または試練をいかなる意味においても妨げるものではない。この特別なクラスのいずれかに入ることに成功した者たちは、世界と共に裁かれるのではなく、世界が裁かれる時、報酬を受けるのである。
――最終的な試練と裁きに必要な教育と訓練を人々に与える――であろう。聖徒は世を裁くものであることをあなたがたは知らないのか(Ⅰコリント6:2)
この特別に選ばれたクラスは残りの人類と同じように、かつてはアダムの有罪の下にあった。しかし、信仰によってキリストの死の利益を分かつ者となったのである。神の約束によって、最初義とされ、次に各自の召しの条件を満たすことによって、彼らは栄光と権威の地位に高められるにふさわしい者と認められるのである。 |
The trial
of these classes
is more severe than the trial
of the world.
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この二つのクラスの試練と裁きは、裁きの日における世界の試練よりはるかに厳しい。なぜなら、裁きの日には、キリストが支配し、サタンは縛られ国々を欺くことが出来なくなる(黙示録20:3)のに対して、彼らは、この世の君であるサタンの策略と誘惑のすべてに立ち向かわなければならないからである。
裁きの日には、人類は義を報いられ、不義のみを罰せられるのに対して、彼らは義のために迫害される。彼らの歩む道には大きなつまづきの石とわながあるが、それらは、世界が試される時には取り除かれる。しかし、これら二つの特別なクラスの試練は、世界の試練よりはるかに厳しいけれども、その報酬もそれに比例して大きいのである。
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偉大なる詐欺師、サタンの詭弁の下に、世界も、有名無実な教会も、来たるべき裁きの時のことを語っているのを知っているのにもかかわらず、これに恐れのみ抱いている。この恐怖のために、彼らにとっては、間近に来ている主の日の裁き以上に不吉な歓迎されざるおとずれはないのである。
彼らは自らこの日より遠ざかり、それを聞くことさえ願わない。神が義を持って世界を裁くために定めた主の栄光の支配下に貯えられている、世界の祝福がどんなものであるか、彼らには想像もつかないのである。裁きの日に関して、サタンが真理から人々を盲目にするために、たくらんだ最大の計画中に教えられるべきものは、様々なキリスト教宗派の信条や讃美歌に入りこんだ誤りである。多くの人々が、これらの誤りを神のことばの最も重要な部分と考えている。
約束された裁きの日に関する預言者や使徒の見解はこれと、どんなに異なっていることであろう!ダビデの預言的歓喜のことばに注目してみよう。(歴代史上16:31~34) |