世々にわたる神の計画

 第6章 

 主の再臨――その目的と万物の更新 

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  主の再臨

  ―その目的と万物の更新人格的、
        千年期前的主の再臨

  ―その初臨との関係

  ―教会の選びと世界の回心

選びと恩恵

希望の捕われ人

回復に関する預言的証言

教会と世界の希望は主の再臨に関わる。

 

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 それは主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのために、あらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで天にとどめておかれねばならなかった。 (使徒行伝32021

The second personal coming
of Jesus

 

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If Jesus has been with the church
for 2,000 years,
why did he promise
to come again?

    主が、ある目的のために、いつか、何らかの手段で再び来ることを弟子達に知らせようとしたことは、聖書に親しんでいるすべての人が信じ、また、認めることである。事実、イエスは 見よ、私は世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。 (マタイ2820)と語り、その霊と言葉によって、主はいつも教会と共に居て、聖徒を導き、教え、慰めの支え、そして苦難の中にいる彼等を励まし続けている。

   しかし、教会はあらゆる面に於て、主の知識と主の絶えざる保護と愛とを認めていても、なお、約束された主の人格再臨を切望しているのである。それは、主が、 そして行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。 (ヨハネ143)と語った時、主は確かに人格再臨のことをさしたからである。

Pentecost
was NOT
the second advent.
    ある人々は、これを、ペンテコステに聖霊が降臨することをさしていると言い、また、他の人々は、エルサレムの滅亡をさしていると言っている。しかし、これらの人々は、ペンテコステの60数年後に、そしてエルサレムの滅亡26年後に書かれた聖書の最後の書物、黙示録に、かつて死に、そして今なお生きている方が未来の出来事について 見よ、私はすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 

   と言っている事実を見のがしている。そして霊感を受けたヨハネは、それに答えて 主よ、来りませ と言っている。(黙示録221220

   多くの人々は、罪人が悔い改めるとキリストの再臨の一部となる。だから、世の中すべての人が悔い改めるまで主は再臨の過程を続け、そして、その時、主は完全に再臨すると考えている。
At the time
of our Lord’s second presence, the world will be far from converted
to God.

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Buddhism

    これらの人々は、明らかに、これに関する聖書の証言を忘れている。聖書は、主の再臨の時には、世の中は神に帰るどころか、その全く反対だと語っている。

 終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は神よりも快楽を愛する者となる。 テモテ314

   そして悪人と詐欺師とは人を惑わし、人に惑わされて悪から悪へと落ちてゆく(13節)彼らは、主の小さき群になされた特別な忠告を忘れている。

 あなたがたが、放縦や泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけない時、その日がかわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。 (ルカ213435

   また、人類が主の再臨を見る時、 地上の諸民族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。 (黙示録17)と言われているが、これが罪人の悔い改めを示していないことは明らかである。すべての人が罪の悔い改めを嘆くであろうか?それとは反対に、もしこの言葉が、ほとんどすべての人が認めているように、地上の主の再臨のことを言っているとすれば、地上のすべての人が主の現われるのを喜ぶわけではないと教えているに外ならない。もしその時、すべての人が悔い改めるなら、すべての人は喜ぶはずである。

    ある人々は、実際の主の再臨と存在とを期待してはいるが、それははるかかなたの未来の出来事であるとしている。すなわち、現在の状態の中での教会の努力によって、世界は改心させられ、その後で一千年期が登場するとしている。

   彼らは、世界が改心する時、サタンはしばられ、主を知る知識が全地に満ち、人々は戦いのことをもはや学ばず、その時教会はその業を終る。そしてその偉大な困難な仕事を教会が成し終った時、主は地上の諸問題を取り去り、信じる者と罪人とにそれぞれ報いると主張している。ある聖句は、部分的に取るなら、この見解を支持しているように見える。

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    しかし、神の言葉と計画を全体として見るならば、これらすべての聖句は全く反対の見解を支持していることが分るであろう。すなわち、その見解とは、キリストは世界の改心以前に来て、世界を改心させる目的のために支配するということ、教会は今、試されつつあるということ、そして勝利を得る者に約束された報酬は、彼らが栄光に輝いた後に、主イエスと共に支配を分かちあうことであるということ。

   そして、それこそ神が定めた世界を祝福し、主を知る知識がすべての被造物に及ぶことを可能にする手段であるということである。これが主の特別な約束なのである。―― 勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て、私の父と共にその御座についたのと同様である。 (黙示録321 彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 (黙示録204

 

 

 

Witnessing
to the world
does not imply
the conversion
of the world.

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    千年時代が終るまで主は再臨しないと主張する人々によって特に信頼されている二つの聖句がある。それに注目してみよう。一つは、 この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 (マタイ2414

   である。彼らは、これを福音時代が終る前の世界の改心について語っていると主張する。しかし世界に宣べ伝えるということは、世界を改心させることを意味していない。この聖句はどのようにして、その宣教が受け取られるかについては何も語っていない。この宣教は既になされている。

   1861年に聖書教会の報告は、地上のすべての人々が、それを受け取ったという訳ではないが、福音が地上のすべての言葉で出版されたことを示している。確かに、生きている16億の半分は、イエスの名を聞いたことさえないのである。しかも、この聖句の状態は成就されている。すなわち、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられたのである。

What is the
main object
of the gospel now?
     使徒は(使徒行伝1514)現在の福音の主なる目的は、キリストの御名を負う民(勝利者となる教会)を選び出すことであると語っている。主の再臨の時、彼らは主と一体となり、キリストの名を受け取るのである。現在の世界への宣教は副次的な目的なのである。

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"At [God’s]
right hand" –
not a location,
but authority
and power.

 

 

 

 

 

 

 

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King Charles II
on his throne

     もう一つの聖句は、 私があなたのもろもろの的をあなたの足台とするまでは、私の右に座せよ。 (詩1101)である。この聖句に関するあいまいな、漠然とした解釈によれば、教会を通して、すべてのものを従わせる仕事が達成されるまでキリストは天のどこかの実際の場所に座っていて、それが達成された時、支配するために来るということであるらしい。これは誤解である。

   ここで述べられている神の御座は実際の場所ではなく、その最高の権威と支配を示している、そして、主イエスはその支配を分かったために高められたのである。パウロは、 神は彼(イエス)を高く引き上げ、すべての名にまさる名を与えられた と言明している。神は彼に父に次ぐすべてにまさる権威を与えられていた。

   もしキリストがすべての的をその足台とする(従わせる)まで実際の場所に座っているならば、当然、彼はすべてのものが従うまでは再臨することができないことになる。しかし、もしこの聖句の中の が、定められた場所と座席ではなく、私達が主張するように、力と権威と支配を意味するならば、この聖句は彼が与えられた力によって すべてのものを従わせる ために来ると教える。(ピリピ321

   他の聖句と決して矛盾しないであろう。例えば、ウイリアム皇帝はドイツの王座についている、と私達が言う時、王の椅子に座っていると言っているのではない。事実、彼はめったに王の椅子には座らないのである。私達が、彼が王座についていると言う時、それは、彼がドイツを支配していることを意味するのである。右というのは、最高の支配者に次ぐ卓越した最も重要な場所、位置を意味する。こうして、ビスマルクはドイツの王によって権力の右に高められ座についた。

   そしてヨセフはエジプトの国でパロの右の座についた。――文字通りにではなく、慣例的なことばのあやである。カヤパに対するイエスの言葉は、このことと一致している。 あなたがたは間もなく人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。 (マタイ2664)彼は再臨する時、右に座しているであろう。そして千年時代の間また、永遠に右に座し続けるであろう。

The first advent REDEEMS.

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The second advent RESTORES.

     初臨と再臨の関係

神の現わされた計画を更に調べると、初臨と再臨と両方の目的をより広い見地から眺めることができる。私達が記憶すべきことは、両方の出来事は一つの計画の部分として、かかわっていることである。初臨の特別な目的は、人類を救うことであ

   り、再臨のそれは、救われた者を回復し、祝福し、解放することである。すべての人のあがないとしてご自分の命を捨て、その犠牲を父にささげるために、私達の救い主は天に昇られ、こうして人間の悪のための和解を成し遂げられたのである。彼はしばらくの間とどまり、 この世 の君が悪の支配を続けることを許した。

   それは 花嫁・子羊の妻 が選ばれ終る時まで許されるのである。彼らは、そのような誉れにふさわしいと見なされるためには、現在の悪の世界の力に打ち勝たなければならないのである。その時、主の犠牲によって確かなものとされた偉大なる祝福が人類の世界に与えられ始め、主は地上のすべての家族を祝福するために現われるであろう。

     確かに回復と祝福は、あがないの代価が救い主によって支払われた時、すぐに始まることが可能であったはずである。そうならば、使徒たちが期待したように、メシヤの初臨と再臨は一つの出来事となり、支配と祝福がすぐに始まったであろう。(使徒行伝16

   しかし、神は 私達――キリスト教会――のために更に良いものを、あらかじめ備えて下さっているので (ヘブル1140)キリストの支配が、その苦しみとこの19世紀間によって、へだてられているのは私達の利益のためなのである。

The period between
the advents is for
the development
of the church.

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The selection
of the church...

     初臨と再臨の間、すなわちすべての人のためのあがないと、すべての人の祝福との間の期間は、キリストの体である教会の試練と選びのための期間である。さもなければ、これらは一つの降臨で済んでしまい、千年時代の間に主が再臨される時行われる仕事は、イエスの復活に続いたであろう。

   いやむしろ再臨の仕事が初臨のすぐ後に続くというよりも、もしエホバが 小さき群 キリストの体 の選択を目的としなかったならば、初臨は初臨の時に起こらず再臨の時に起ったであろう。すなわち、初臨と再臨は一つになったであろうと言ってもよい。

   なぜなら、神は6000年の間の悪の許容を計画されていることが明白であり、また、すべてのものの清めと回復が7000年目の間に達成されることになっていることも同様に明白であるからである。

The reason for
the apparent delay in blessings.
     こうして理解されるように、罪人のための犠牲とあがないとしてのイエスの来臨は、祝福と回復の時が、彼の 相続者 小さき群 の選択に先だって、それを可能にするのに、ちょうどよい長さであった。

   これは、ある人々にとっては、あがないに備えられ、約束された祝福を与える神の側の明らかな遅れであるように受け取られるであろう。栄光の目的であるあがないの代価は、人間が期待するよりもはるか昔に提供されていたけれども、祝福は定められた時に、最初に計画された通りに必ず来る。

The Church’s mission is
to witness.

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God has not yet even attempted
the world’s conversion.

     使徒は、私達に、イエスがその昇天から回復の時の始まりまで、つまり千年時代までの間、ずっと地上を離れて天にいると告げている。―― このイエスは……万物更新の時まで天にとどめておかれねばならなかった。 (使徒行伝 321

   聖書がこのように、主の再臨の目的が万物の更新であること、主が現われる時には、国々は改心するどころが、怒り、反抗することを教えているのだから、私達は、教会がその宣教の達成に失敗するか、神の計画が挫折するか、さもなければ、私達が主張し、示してきたように、教会は現在の世界の改心を期待しているのではなく、すべての民にあかしをするために福音を宣べ伝え、未来の偉大な働きのために教会自身を神の導きのもとに準備することであることを認めざるを得ない。

   神はまだ、世界の改心のために、その力をいかなる手段によっても使い尽くしてはいない。いやそれどころか、神はまだ世界の改心を試みてさえいないのである。

A future restitution
for every man, woman and child...

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     このことは、ある人々にとっては奇妙に聞こえるかも知れない。しかし、そのような人々は、もし神が世界の改心を試みたとしたならば、著しくそれに失敗しているということを考慮するがよい。なざなら、今まで見てきたように、地上の何十億のうち、ほんの少数の者だけが、その人によって救われねばならない唯一の名を知的に、かつて聞いたことがあるにすぎないからだ。

   私達は、先に主だった宗派の――バプテスト派、長老派――その他――いくつかの見解と教えを紹介した。彼らの主張は、神は世界の中から教会である小さき群を選び出しつつあるということである。彼らは、神がこの教会を選ぶ以上には何もしないと信じている。しかし、私達は、聖書が神の計画の更に深いステップを教えているのを知っている。――それは教会が完成し栄光に輝く時、選ばれた教会を通して達成されるべき世界の回復である。

   この福音時代の 小さき群 、勝利者は、 その子孫 の唯一の体であって、それによってすべての地上の家族は祝福されることになっているのである。

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     エホバは6000年の間、世界を改心させようと試みてきたが、その間中、ずっと失敗に終っていると主張する人々は、そのような見解と、神のすべての目的は達成されるであろうということ、 神の言葉は、むなしく神に帰ることなく、神が命じ送ったことを果たす (イザヤ5511)という聖書の確証とを一致させるのに困難を見出すにちがいない。

   世界がまだ改心していないという事実と、主を知る知識がまだ地に満ちていないという事実は、そのことがまだ命じ送られていないことを証明している。

 

 

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"Rightly dividing the word of truth"

 

Two lines
of thought
divide Christians:

     このことは、私達を二つの思想に導く。それは長い間、キリスト者を分裂させてきたことでもあるのだが、それは神の選びと恵みの問題である。この両方の教理は、その明らかな対立にもかかわらず、聖書を学ぶ者には否定できない聖書的支持を持つ。この事実は、両者ともに、何らかの意味で真理であるに違いないという推測に私達を導く。しかし、この問題に関する天的律法と秩序を守ることと、 真理の言葉を正しく識別する ことなく、それらを一致させる道はない。

   もし、それらを守れば、時代にわたる神の計画に示されているように、選びが現在と過去の間に信仰しつつあるのに対して、恵みと名づけられたものが千年時代の間の世界一般のための恵み深い神の摂理であることを、私達にはっきり示してくれるであろう。

   もし、前章で示された時代と世界の特徴を心に止めておくならば、また、選びと恵みに関するすべての文章を調べるならば、選びを論ずるすべての文章が現在と過去の時代に適用されるのに対して、恵みを教えるすべての文章は、次の時代に完全に当てはまるものであることを発見するであろう。

Election

Vs.

Free Grace

     しかしながら、聖書に教えられているように、選びは、その主唱者たちによって普通信じられ、教えられているような独断的な強制でも宿命論でもない。それは、神がその目的のために定めた時間の間に、神が期待する結果に適応し、順応する者の選びである。

アルミニウス派の人々によって支持された恵の教理もまた、過去に教えられたいかなる主唱よりも、もっと広く豊かな神の愛顧の現われである。キリストにおける神の恵みは、ある意味では分に過ぎたものであるが、全くの恩恵なのである。しかし、現在に至るまで人間が罪に落ちているために、神の愛顧のある部分は、特定の個人、国民、クラスに限られていた。

   それに対し、次の時代には、世界のすべての人々は、その時差し出される愛顧を、その時すべての人に知らされる条件で、分つために招かれる。そしてそこに来る人は、だれでも命の泉から価いなしに飲むことができる。(黙示録2217

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God’s selection
of Israel
is a type
of the great work for the world.

 

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"I am not sent but to the lost sheep
of the house
of Israel." 
Matthew 10:5,6

 

 

古代人の選び

   過去を振り返って見ると、地上のすべての家族を祝福する約束のすえが来たるべき経路としてのアブラハムとその子孫の選びに気づく。(ガラテヤ329)私達はまた、神が全人類のために、いかに偉大なる業を成し遂げるかを模型的に示そうとして、すべての国民の中からイスラエルを選んだことにも気づく。――エジプトからの彼らの解放、彼らのカナン、彼らの契約、彼らの律法、罪を消し民を清めるための彼らの犠牲、及び、これらすべてを成就するための彼らの祭司などは、全人類を清める本当の祭司と犠牲の模型的、縮図的象徴であるにすぎない。

   神はイスラエルの民に語って言った。 地のもろもろのやからのうちで私はただあなたがただけを知った。 (アモス32)キリストが来るまでは、この民だけが認められていた。主の教えは彼らだけに限られていたからである。そして主は、弟子たちが他の国民に行くことを許されなかった。――彼は弟子たちをつかわすにあたって言った。

    異邦人の道に行くな。またサマリヤの町に入るな。 なぜなのか?なぜなら、彼は言う、 私はイスラエルの家の失われた羊以外の者にはつかわされていない。 (マタイ10561524)その死まで主のすべての時間はイスラエルの人のために献げられた。しかし、これは世界のためのキリストの最初の仕事、すなわち定められた時に、実際にすべての人にとって祝福となる価いのない豊かな恵みの最初の現われなのである

God’s gift
is unlimited.
     この神の最大の賜物は、特定の国民やクラスに限られていなかった。それはイスラエルのためだけのものではなく、全世界のためのものであった。神の恵みによってイエスキリストは、すべての人のために死を味わわれたのである。(ヘブル29
     さて、福音時代にも、特定な選びがなされる。世界のある部分は、他の部分よりも、福音に関して恵まれている。(福音は聞くすべての者に解放されているが)地図を開き、キリストの福音によって、ある程度啓蒙され、祝福されている所が、いかに小さな部分であるかを見て欲しい。

   そして、あなたの特権と知識を、今日、異邦の暗やみの中にあって召しを聞いたこともなく、最後まで召されることもなかった何百万の人々と比べて見て欲しい。召し出された――召しと選びとを確かなものとした人々、神の子、私達の主キリストと共同の相続人となるために召された人々――仲間が完成する時、神の世界救済の計画がやっと始まるのである。

The Second Adam and
the Second Eve

 

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"The Spirit
and the Bride
say, Come!"

     彼らが選ばれ、育てられ、高められるまでは、すえがヘビの頭を砕くことはないであろう。 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。 (ロマ1620、創世記315)福音時代は純潔な処女、忠実な教会を来たるべき花婿のためにととのえる。

   そしてその時代の終りに、花嫁の準備がととのった時に(黙示録197)花婿が来る。そして準備のととのっている者が花婿と共に婚礼のために入っていく――第二のアダムと第二のイブは一体となる。それから後に、栄光ある回復の業が始められる。

   次の世界、新しい天と新しい地には、教会は、もはや嫁ぐ処女ではなく花嫁となり、その時、 御霊も花嫁も共に言うであろう。きたりませ、また聞く者もきたりませと言いなさい。かわいている者は、ここに来るがよい。命の水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。 (黙示録2217

     福音時代は教会の使命が終る時ではなく、未来の偉大な事業に必要な準備期間であるにすぎない。この約束された来たるべき祝福のために、被造物全体が今に至るまでに共に産みの苦しみを続け、神の子の出現を待ち望んでいるのである。(ロマ82219

   これこそ、価なしの恵みが、生きている者ばかりではなく、死んでいる者にまで十分に与えられる来たるべき時代の祝福の事実であると言わねばならない。

Those in the tomb are prisoners
of hope.

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     再臨の祝福のいくらかを理解し、そして主がその死によって買い戻した偉大なる祝福を人々に与えるために再臨するのだという事実をある程度理解している人々の中には、この最後の問題を見落している人々がある。それは、墓の中にいる人々さえも、その時には、滅びのなわめ――死をまぬがれる者と同じように、メシヤの栄光ある支配の恩恵を受けるということである。

   しかし、イエスがすべての人々のために死んだからには、すべての人々が、主がご自分の貴重な血で買い戻された祝福と機会を与えられねばならない、だから、私達は、千年時代には墓のなかにいるすべての人々にも、墓の中にいないすべての人々と同様に、その祝福が与えられることを期待すべきである。

   このことについては、私達が更にこの問題に関する主の証言を調べるに従って豊富な証拠を見るであろう。墓のなかにいる人々が 望みをいだく捕われ人 と呼ばれるのは、神の計画がそれらの人々を墓から解放することになっているからである。

The majority
of mankind
have never
heard of Jesus.

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What has become of the multitudes who have died?

What is their condition?

選ばれない人々の希望はあるのか

アダムの創造から6000年の間に、約1430億の人間が生きたと見積られている。そのうち最も寛大にみて、10億弱が神の聖徒であったと数えられる。この概算は、私達の唯一の救い主の名による信仰も希望も持たずして死についたものが1420億という膨大な数であったということになる。このうち実に多数の人々がイエスの名さえ知らず、聞いたこともなく、従って、信じるはずがないのである。

この数字が与える全く不可解な謎は、いったいこの大群衆はどうなったのか、ということである。彼らは今、どうなっているのか?また、これから未来にどうなるのか?

   神は彼らの状態や運命を予知したはずであるが、彼らのために何の摂理ももたないのだろうか?それとも多くの人々が主張するように、神は世の始めから、悲惨な無慈悲な絶望的な永遠の拷問という摂理を彼らのために備えているのであろうか?

   それともまだ私達の知らない神の計画の高さ、深さ、広さがどこかに貯えられていて、すべての人々がその名の知識を得、従順を学び、永遠の命を楽しむ機会が与えられるのであろうか?

 

 

Atheism

 Calvinism

Arminianism

     この疑問に対して思慮あるクリスチャンは、エホバの性質に調和する答えを求めて自らに問い、そしてその答えは様々である。――無神論者の答え:彼らは永遠に死ぬのであって、後には何もない。彼らが再び生きることはない。

カルヴィン派の答え:彼らは救われる者として選ばれなかった。神は、彼らを失われるべき者として運命づけている。――地獄へ落ちる――現在彼らは、地獄にいて、苦悶し、身もだえし、希望もなく永遠にその状態にとどまる。

アルミニウス派の答え:神は彼らの多くを無知の故に許す。例え彼らがイエスのことを知らなくても、彼らは彼らの知る範囲内でベストを尽くしたので、確かに 長子の教会 の一部となる。

Christ
is the only basis
for salvation.

 

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Peter's Faith

     この最後の見解に対しては、多くのキリスト教の宗派が、神の公儀に調和するものとして同意している(一部の宗派の信条はこれと相反するにもかかわらず)。しかし、聖書はこの見解を支持しているだろうか?

   聖書は無知が救いの土台となると教えているであろうか?否、聖書に書かれている救いの唯一の土台は私達の主であるイエスを救い主と信じる信仰である。 あたながたの救われたのは、実に恵みにより、信 仰によるのである。 (エペソ28)信仰による義認ということがキリスト教全体に流れる根本である。救われるために私は何をすべきか?

   という質問に対して使徒は答えている。 主イエス・キリストを信じなさい と。 この人による以外に救いはない (使徒行伝412 主の御名を呼び求めるものは、すべて救われる。 (ロマ1013

 

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The Gospel sent
to the Gentiles

 

Will ignorance
save men?

 

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The Law did not bring life to Israel

     しかしパウロは、人が信じるためには福音を聞かねばならないことを指摘している。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろう?聞いたことのないものを、どうして信じることがあろうか? (ロマ1014

ある人々は、パウロが 律法を持たない異邦人が自然のままで律法の命じることを行うならば、たとえ律法を持たなくても彼らにとっては、自分自身が律法なのである。 (ロマ214)と語ったことで、無知は人を救うとパウロが教えていると主張する。

   319

   320)ユダヤ人に与えられた律法は、彼らの弱さを明らかにした。そしてユダヤ人が自らを神の前に義とすることはできないことを示すように意図されたにのである。なぜなら、

    律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。 書かれた律法は、ユダヤ人を有罪とした。そして異邦人も自分自身を有罪とするのに十分な良心の光を持っていたのである。こうして、すべての口が命の権利を主張する口をふさがれ、全世界が神のさばきに服するのである。

Many Christians wrongly say
that God
will not condemn the ignorant.
     律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば新しい契約によって約束された祝福を得ることはできないというヤコブの主張(210)を思い出すと、 義人はいない、一人もいない。 (ロマ310

   ということが確かに本当であることに気づく。このように聖書は、人間を救うすべての希望の扉を閉じ、罪のある人間は立派な行いによって永遠の命を確保することはできないこと。また、無知を救いの土台として弁護することも、同様に無駄であることを示している。無知は決して信仰と従順とに対する報酬を受け取ることはできない。

God has
a blessing for all,
a better way.
     何百万という多くの無知な幼児や異邦人が永遠に失われる(絶望的な永遠の拷問に送られると彼らは教えられているのだか)ということを信じることを望まない多くのキリスト者は、これらの聖書の主張にもかかわらず、神は無知を罪に定められないと主張する。

   彼らの心の寛大さと神の善意を信ずる彼らの信仰には感心するが、私達は彼らに対して、聖書の主張を性急に捨てたり、無視したりしないように促したい。神は無知の道よりもはるかに優れた道によって、すべての人々を祝福されるのである。

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What will happen
to the heathen?

     しかし、彼らの行っていることは、彼らの信仰と一致しているであろうか?否、彼らは、無知な者はその無知のために救われるであろうと信じると告白するが、多くの貴重な命と巨万の富を通じて異邦人に宣教師を送り続けている。もし、無知を通して、すべての者が、否、その半分でさえも救われるとするならば、彼らにキリストを説くために宣教師を送ることは、むしろ全く有害であると言わねばならない。というのは、宣教師が送られて信じるようになる者は、千人に一人ぐらいしかいないからである。

   もし、無知を通して救われるという考えが正しいならば、彼らは無知のままにしておいた方がよほど良いであろう。そうすれば、もっと多勢が救われるわけであろう。同じ議論を更に続けるなら、もし、神がすべての人を無知の状態においたならば、すべての人が救われるということにならないだろうか?

   そうだとすれば、イエスの降臨と死は無意味であり、使徒や聖徒の教えも苦難も無駄であり、福音と呼ばれるものは、良きおとずれではなく、非常に悪いおとずれになるであろう。

   各個人の永遠の運命は、その個人が生まれる以前から変更できないものとして決められていると信じるカルヴィン派的、または宿命論選びの見解を持つ人々が異邦人に宣教師を送ることは、全くもってバカらしい理屈に合わないことと言わざるを得ない。

In due time,
there will be
full knowledge AND
appreciation.

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How will the
"good tidings
of great joy"
be to
"ALL PEOPLE"?

    しかし、布教の精神に溢れている聖書は、救いには――信仰による道、行いによる道、無知による道というような――幾つもの道があるとは教えていないし、また、神を汚す宿命論も教えてはいない。聖書は、人々の救われる希望の門戸は唯一であって、他は悉く閉ざされていることを示している一方、だれでも命を得ることができることを教えている。

   また、その命に入る祝福された特権を知ることができないすべての人は、来たるべき時に、十分な知識と理解力とを与えられることをも示している。

   その唯一の道は、有罪を宣告された人種に属するいかなる人も、神に来ることが出来る道であり、それは立派な行いによるものでも、無知によるものでもなく、世界の罪を取り除くキリストの貴重な血を信じる信仰によるのである。(ペテロ119、ヨハネ129)これこそ福音、すべての人に及ぶ大きな喜びの良きおとずれである。

   これらの問題に関する大きな解決は、神に任せることにして、1420億の人々がどうなっているのかを調べることにしよう。
Why is mankind
in a condition
of suffering?
     彼らがどうなっているにせよ、現在、苦しみの状態にあるのではないことは確かである。というのは、キリストがすべての人に報いるために(マタイ1627)来る時まで、完全な十分な報酬が教会に与えられることはないばかりではなく、不義な者への罰も、その時までは与えられることがないと聖書は教えているからである、彼らの現状がどうであれ、まだ十分な報酬を受けているはずがないのである。

   なぜなら、 主は、不義な者どもをさばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存知なのである。 (ペテロ29)さばきの日に主は必ず、さばかれるからである。

"God is love."

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     しかし、それほど多くの私達の同胞が救いに必要な知識の欠如から、いつかは失われる運命にあるという思想は、確かにほんの少しでも愛とあわれみを持つ人にとって悲しいことである。しかし、この思想と調和しないと思えるような聖句が多くあることも事実である。来たるべき回復の希望を別にしても、唯一の機会が過去と現在の光にあるならば、 神は愛なり とか 神はその御一人子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。

    という言葉を私達はどう理解するべきであろうか?(ヨハネ48、ヨハネ316)もし神がそれほどまでにこの世を愛したのなら、信じる者が救われるために摂理が備えられるべきであり、また、すべての人が信じるために聞くことができる何らかの配慮を備え給うべきである。

Every man
has not yet
been enlightened.
      すべての人を照らすまことの光があって世に来た。 (ヨハネ19)と教えられる時、私達の観察は、いや、そうではないと答える。すべての人はこの光に照らされていない。私達は地上の何億のうち、ほんおわずかの者だけが、この光に照らされているのを見るのみである。比較的文明化された今日でさえも、多くの異邦人は主を知るきざしさえ見せていない。ましてソドム人及び、その他の多勢の過去の人々も同様である。
Was redemption
a failure?

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"Behold, I bring you good tidings
of great joy,
which shall be to
ALL PEOPLE."
Luke 2:10

キリストはすべての人のために死んだ

神の恵みによって、イエス・キリストが すべての人のために 死を味わわれた(ヘブル29)と私達は教えられている。だから、もしイエスが1430億のために死を味わわれたにもかかわらず、何らかの理由によって、その儀性がたった10億だけしか有効ではないならば、救いの計画はかなりの失敗であったと言えるのではないだろうか?そうだとしたら、使徒パウロの言葉はあまりにも幅がありすぎるのではないだろうか?また私達は、

 見よ、すべての民に与えられている大きな喜びのおとずれをあなたがたに伝える (ルカ210)とも教えられている。

そしてまわりを見回して、それが 小さき群 にとってのみ喜びの良きおとずれであって、すべての人々にとってはそうではないのを見ると、その天使の言葉も、メッセージの良さと深さを誇張しているのではないか。メシヤによって達成されるべき業の重要性を過大評価しているのではないかと思わずにはいられない。

Will all benefit from Christ’s death?      また他の聖句は、 神は唯一であり、神と人間との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた。 テモテ256

   と教える。すべての人のあがない?ではなぜ、あがなわれたすべての人がキリストの死から益を得ないのであろうか?なぜすべての人が信じるために真理の知識を得ないのであろうか?

The key is
the ransom:
"To be testified
IN DUE TIME."

 

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The Crucifixion

     理解の鍵なくしては、これらの聖句は何とあいまいな、ちぐはぐなものに見えることか。しかし、いったん神の計画を開く鍵を握る時には、これらの聖句はことごとく声をそろえて 神は愛なり と宣言する。この鍵は、先に引用した聖句の後半に見られる。 彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは定められた時になされるべきあかしにほかならない。

    神はすべてのことに時を定められる。神はそれを過去の世代にあかしすることも出来たはずである。しかし、そうしなかったのだから、その定められた時は、未来であるに違いない。キリストの花嫁、教会のメンバーとなり、神の国の誉れを分かつ者たちにとっては、現在がその良きおとずれを聞くべき 定められた時 なのである。だれでも今、聞く耳を持つ人は聞くがよい。

   その人はそれ相応に祝福されるであろう。イエスは私達が生まれる前に私達のあがないの代価を支払ったが、その後長い間、聞くべき 定められた時 は来なかった。従ってこれに対する責任も起こらなかった。

   責任は知識と私達の能力に伴って比例するものである。神の定められた時に、それがすべての人にあかしされる時にも、同じ原理が適用される。その時、すべての人が信じる機会と祝福の機会を与えられるであろう。

Does death
end all hope?
     一般に普及している意見は、死がすべての試練を終らせるとしている。しかし、そう教える聖句は一つもない。そればかりか、もし死が世界の無知な多数の人々の希望のすべてを終らせるならば、上に掲げたすべての聖句は、他の多くの聖句と同様に、無意味なもの、またそれ以下のものとなるであろう。

   この一般的に受け入れられる見解を証明するために引用される聖句の一つは、 木は倒れた所に横たわる (伝道の書113

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How will
"all men"
come to know
the truth?

 

 

 

The two Adams
of the Bible--
Adam and Jesus.

 

      である。もしこれが人間の未来と何らかの関わりがあるとすれば、それは、人間が墓に入る時の状態がどうであれ、そこから目覚めさせられるまでは、いかなる変化も起こらないということを示している。そして、これはこの問題に関するすべての聖句に首尾一貫している教えである。

   神は無知のために人間を救うのではなく、 すべての人々が真理の知識に来る という計画を持っているのだから、(テモテ24)また、人類の大部分は無知のうちに死んでいるのだから、また、 あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もない。 (伝道の書)のだから、神は知識と信仰と救いのために死人を目覚めさせられる備えをされているのである。

   こうして、神の計画は、 すべての人がアダムにあって死んでいるのと同様に、すべての人はキリストにあって生かされるのである。ただ各自はそれぞれの順序に従わなければならない。――先ず最初は福音教会、花嫁、キリストの体、それから千年時代に主の臨在(来臨というのは誤訳である)に際して、千年の間に主のものとなるすべての人々――主の定められた時は、小から大にいたるまで、すべての人が主を知るためにあるのである。 (コリント1522

    死が最初のアダムによって来たように、命はキリスト、すなわち第二のアダムを信ずるすべての人々に回復される。アダムが持たなかった悪の経験をもって目覚める時、その救いを神の賜物として感謝を持って受け入れる人々は、従順という最初の条件のもとに、永遠に生き続けることが出来る。

   平和の君の義の支配の下に、従順が要求され、そしてその従順をつらぬくことができる完全な能力が与えられる。これこそ世界に提供される救いなのである。

God will not
give everlasting life
against man’s will.
     さて、今度は万人救済派を除き、一般に無視されている聖句を考えてみよう。私達は万人救済説を信じる訳ではないが、神のことばの証言のすべてを使い、信じる権利を持ち、それに喜びを持つ者であることを主張する。それはこの聖句である。 私達は、すべての人の救い主、特に信じる者たちの救い主なる生ける神に望みを置く テモテ410)神はすべての人を救う。

   しかし、キリストを通して神に来る以外に特別な救いはない、神の自由意志によるすべての人間の救いは、人間の自由意志、または選択の自由に従って、人間が望まない命を与えるというようなものではない。 私は今日、命と死とをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたは生きながらえるであろう。 (申命記3019

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Simeon and Jesus

     これら二つの救いを対比してシメオンは語っている。 私の目が今、あなたの救いを見たのですから……異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。 このことは、仲保者としてのイエス・キリストがすべての人のあがないとしてご自身をささげられたという事実が、定められた時にすべての人々にあかしされる、と語る使徒の言葉と一致している。

   このあかしは、信仰にも、彼らの意志にも関わりなく、すべての人々に与えられるものである。救い主に関するこの良きおとずれは、すべての人に対して与えられる。しかし、罪と死からの特別な救いは主の民――イエスを信じる者――だけに与えられるのである。(マタイ121)なぜなら、神の怒りが信じない者の上にとどまると書かれているからである。(ヨハネ336

A general
salvation and
the special salvation.
     こうして、すべての個人に来る一般的救いは、真理の光から来る光と、命を選ぶ機会とから成ることが分る。しかし、人類の大部分は、墓の中にいるのだから、救いの良きおとずれを彼らにあかしするためには、彼らを墓から連れ出す必要がある。

  また、現在信じる者が希望のうちに享受している(ロマ824)特別な救いは、千年時代に、 その日に信じる 者たちに現実となって現われるのだが、それは、罪と滅びのなわめの隷属から、神の子としての栄光ある自由への完全な解放である。

   しかし、これらすべての祝福の達成は、キリストの王国の律法に心から従うことにかかっているのである。――完全性に達する速いか遅いかの速度は、王と愛の律法に対する愛の程度を示すものとなる。

   もし、真理に照らされ、いったん神の愛の知識を得、(実際に完全なものとなろうが、完全なものと見なされようが)人間の完全性へと回復された者が、 恐れ を抱き、 神から遠ざかる (ヘブル103839)ならば、彼は不信仰な者たちと共に、民の中から滅ぼし去られるであろう。(使徒行伝323)これが第二の死である。

 

 

True light
will eventually
enlighten
every man.

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    このように、これまでの難解な聖句は、すべて、 定められた時にあかしされる という言葉によって説明されるのである。 定められた時 には、真の光がこの世に生まれたすべての人を照らす。

    定められた時には、その光がすべての人に大きな喜びの良きおとずれとなる。(定められた時 の鍵を用いずに聖書を解釈しようとする時は必ず歪曲した解釈に陥る)パウロはロマ書51819でこれに関しての議論を強調している。 

  彼は言う、すべての人がアダムの反逆によって宣告を受けたように、キリストの義と死に至る従順によって人間を義と認める根拠ができたこと。そして、すべての人は、アダムにあって命を失ったように、個人的な欠点を別にして、第二のアダムを受け入れることによって命を得ることが出来ると。

Restoration
of Israel

God says to Israel,

すべての聖なる預言者
によって教えられている回復

ペテロは、この回復が、すべての聖なる預言者の口を通して語られていると教える。(使徒行伝31921
 

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エゼキエルは渇いた骨の谷のことを語って言う わが民よ、見よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげてイスラエルの地に入らせる……その時、あなたがたは私が主であることを悟る。私がわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なる私がこれを言い、これを行ったことを悟ると、主は言われる。 (エゼキエル371114

 

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Menorah in Israel

 

 

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Vineyard in Israel

     パウロの言葉も、これに一致している。(ロマ112526 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人(選民・キリストの花嫁)が全部救われる(または、見捨てられた状態から元に戻る)に至る時までのことである。

   なぜなら、 神はあらかじめ知っておられたその民を捨てることはされなかった。 からである。(2節)彼らはキリストの花嫁が選ばれる間、神の愛顧から見捨てられたが、その業が完成する時には復帰させられるであろう。(2833節)

   預言者達のことばは、神がどのようにしてイスラエルを再び植えられるのか、また彼らが再び摘まれることはない、という説明に満ちている。

 イスラエルの神、主はこう仰せられる……私は彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず植えて抜かない、私は彼らに私が主であることを知る心を与えよう。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。彼らは一心に私のもとに帰ってくる。 (エレミヤ2457312832404233616

   これらの聖句は、バビロンやシリアやその他に捕虜となったことを語っているのではあり得ない。というのは、それ以来、彼らは引き抜かれているからである。

All who die
in the Millennium
shall die
for their own sins.

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     更に主は言われる。

 その時、彼らはもはや「父がすっぱいびどうを食べたので子どもの歯がうく」とは言わない。人はめいめい自分の罪によって死ぬ。 (エレミヤ312930

   これは現在のことを言っているのではない。現在、人はめいめい自分の罪によって死ぬのではなく、アダムの罪によって死ぬのである。 アダムにあってすべての人は死ぬ。 アダムは罪のすっぱいぶどうを食べた。そして私達の祖父たちは皆、それを食べ続け、その子孫の上に病と悲惨とをもたらした。そして死という罰を早めたのである。すべての人が自分の罪によって死ぬ日は、千年の日、または、回復の日にのみ適用される。

Israel’s promises have wide application.
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     未来の祝福に関する預言と約束の多くが、イスラエルだけに適応されるように見えるけれども、イスラエルは典型であるということを忘れてはならない。だから、イスラエルになされた約束は、彼らに特に適応されている場合もあるが、一般的にはイスラエルの国で象徴される人類の全世界に広く適応されるのである。

   国としてのイスラエルが、全世界の典型である一方、その祭司は選ばれる 小さき群 ――キリストの頭と体、 忠実なる祭司 ――の典型である。そしてイスラエルのためになされる祭司の犠牲、清め、あがないは、イスラエルもその一部分である全世界のための よりよい犠牲 より完全な清め、真のあがないの典型である。

Restitution
is promised
for all mankind, including the
people of Sodom.

 

 

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Lot leaving Sodom

     そればかりか、神は名をあげて他の国々の回復を約束している。その強力な実例として、ソドムがある。ソドムの回復がはっきり教えられているすれば、すべての聖なる預言者の口を通して語られた全人類のための栄光ある回復の教理に、私達は確かに満足を感じることができるであろう。いったい、イスラエルと私達を含むすべての国民が到達すべき完全性と永遠の命への機会を、ソドム人が持つべきでないとする理由があるのだろうか?確かに彼らは正しくなかった。

   しかし、イスラエルも現在、福音を聞く私達も同様に正しくないのである。すべての人のために死んだキリストの義の衣から離れては、 義人はいない、ひとりもいない のである。主ご自身の言葉が私達に語る。神は火を天から降らせて、悪のゆえに彼らのすべてを滅ぼされた。しかし、神の目にはソドム人は、もっと知識を与えられていたユダヤ人ほどの罪はおかさなかったのだ。(創世記1924、ルカ1729

   カペナウムのユダヤ人に主は語った おまえの中でなされた力ある業が、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。 (マタイ1123

There will be
an opportunity
for all in the
Day of Judgment.

 

 

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Synagogue ruins
at Capernaum

ソドムにのぞむ未来の祝福

こうして主は、ソドムが十分な機会を与えられなかったことを教える。そして主は、彼らへの機会を保証して言う(マタイ1124

 しかし、さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう。 

さばきの日の性質とその働きについては後に示すので、ここでは単に、さばきの日にはカペナウムにとって耐えやすいばかりではなく、ソドムにとってはもっと耐えやすいであろうという事に注目するにとどめよう。なぜなら、どちらも十分な知識を与えられていなかったし、 すえ を通して来たるべき計画された祝福も与えられていなかったからであるが、カペナウムはソドム以上の光にもかかわらず、それに逆って罪を犯したからである。

The
"New Covenant."

     もし、カペナウムとすべてのイスラエルが覚えられ、イエスの血で印を押された 新しい契約 のもとに祝福を与えられるとするばらば、ソドム人も 地上のすべての家族 に含まれて祝福されてはならないという理由がどこにあるのだろうか?彼らもきっと祝福されるであろう。イエスの時代よりもずっと前に、神は 天から火を降らせて彼らのすべてを滅ぼした のだから、彼らの回復が語られる時には、彼らの墓からの目覚めも暗示されていることが記憶されねばならない。

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Salt at the Dead Sea near the
Area of Sodom
and Gomorrah

 

 

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Ruins at Area
of Sodom

     今度は、エゼキエル164863の預言を検討してみよう。そこを注意深く読んでみよう。ここで神はイスラエルのことを語り、イスラエルをその隣り、サマリヤとソドムに比較している。そして言う、 私はそうすることを良しと見たので彼らを除いた、 ソドムを滅ぼし、他の国民にはソドムよりもっと罪を犯すことを許したという神の不平等な扱いについては、イエスも預言者も説明を与えていない。

   定められた時 に、神の偉大なる考えが現わされる時、それは明らかにされるであろう。預言者は、単に神がそうすることを 良しと見た とのみ語っている。それにイエスは付け加え、さばきの日には、もっと罪を犯す他の人々により彼らの方が耐えやすいであろうと言っている。

   しかし、死がすべての試練を終らせるのだから、死んでしまったら、従うべき真理に至る知識を持つ機会などあり得ないと仮定して、尋ねてみよう。なぜ神は、ソドムの人々に彼らが救われる唯一の名を知る知識によって救いのチャンスを与えることなく彼らを除き去ることを良しとされたのだろうか?

   その答えは、その時は、まだ彼らに 定められた時 ではなかったからである。 定められた時 には、彼らは死から目覚めさせられ、真理の知識を与えられ、他の地上のすべての家族と共に、約束の すえ によって祝福されるであろう。その時、彼らに永遠の命への試練が与えられるであろう。

Every member
of the human race has a place
in God’s plan.

 

     この思想によってのみ、私達は、 行って、アマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな、男も女も、幼な子も、乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも皆、殺せ と言ってイスラエルが彼らを滅ぼすことを許したのみならず、命令した神が、それでも愛の神であることを理解できるのである。(サムエル153

   この明らかに無謀な命の破壊は、私達が神の計画の体系的な秩序と、その計画のあらゆる部分の完成のための 定められた時 と人類のすべてのメンバーは、その計画の中に入っているという事実の認識に達するまでは、神に属する愛の性質とも、イエスの教え 敵を愛せ とも相いれないように見えるのである。

     今、私達はアマレクびと、ソドムびと、その他の人々が神の正しい怒りの実例として、また、悪を行う者を最後に全く滅ぼし尽くされる紙の決断の実例として示されているのを理解することができる。その実例は、他の人々への警告であるばかりでなく、さばきの日、すばわち、試練が来る時には、彼ら自身への警告となるであろう。

   それらの人々は、病気や災害で死んだ人々と何ら変りない。もし彼らが単に悪を机上で学んだだけであったならば、 定められた時 に試される時、彼らが義を学び善を識別し、命を得ることができることは、彼らにとって大して重要な意味を持たないであろう。

Useful examples
of God’s
just indignation.

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Slaying of the Amalekites

Christ returns
to open the doors
of the grave.

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     しかし、更にこの預言を調べてみよう。イスラエルとソドム、サマリヤを比較して、イスラエルは最もとがめられるべきであると断定した後、(エゼキエル164854)主は言われる 私が再び彼らの捕われ人をもとに返す時、すなわちソドムとその娘たちの捕われ人、サマリヤとその娘たちの捕われ人をもとに返す時、彼らの中にいるあなたの捕われ人も再びもとに返す、

 この捕われ人とは死の捕われ人の外ではあり得ない。なぜなら、ここに述べられている人々は、その時には、すでに死んでいたからである。死において、すべての人は捕われの身である。キリストがその墓の扉を開けるために、また、捕われ人に自由を与えるために来るのである。(イザヤ611ゼカリヤ9155節では、これを もとの所に帰す ――回復――と呼んでいる。

Promises of God
are a certainty –
"Confirmed to
God in Christ."

 

 

 

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The Old Law Covenant will be replaced with
a New Covenant

     キリストを通して神のあわれみを受け入れる意志が十分にあり、より偉大な光と知識のもとで自分自身の罪と弱さが許されることを信じる人々の中でも、イエス・キリストが神のあわれみによって、すべての人々のために死を味わわれたという使徒のことばを受け入れるにもかかわらず、同じ神のあわれみが新しい契約の下で他の人々にも及ぶことを理解することが出来ない人々がある。

   彼らの中には、主はこの預言の中で皮肉をこめてユダヤ人に語り、ユダヤ人と同様にソドム人も回復する用意はあるが、どちらも回復する意図が主にはないことを暗示していると考える者もある。しかし、それに続く聖句がこの考えと一致するかどうか見てみよう。主は言われる。

    しかし、私はあなたの若き日に、あなたと結んだ契約を覚え、永遠の契約をあなたと立てる……私が彼らをあなたに与える時、あなたは自分の行いを思い出して恥じる。私はあなたと契約を立て、あなたは私が主であることを知るようになる。こうしてすべてのあなたの行ったことにつき、私があなたをゆるす時、あなたはそれを思い出して恥じ、その恥じゆえに重ねて口を開くことができないと、主なる神は言われる。

   このように、偉大なるエホバによりしるされる約束は、神が真実であることを信じるすべての人にとって確実な喜びの源となるであろう。特にこれらの祝福の契約が、キリストの貴重な血で印を押され、神が保証したものであることを知る者にとっては、その喜びもひとしおである。

Israel is beloved
for their
fathers’ sakes.

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Father Abraham

     これに、パウロは自分の証言を加えて語っている。

 こうして、イスラエル人はすべて(生きている者も死んでいる者も)救われるであろう。(盲目から回復される。)すなわち、次のように書いてある「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。そして、これが彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てる私の契約である。」……彼らは、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。 (ロマ112629

     神がその愛の豊かさを示される 定められた時 には、ユダヤ人もソドム人もサマリヤ人も、そしてすべての人類が自らを恥じるであろうということに疑念の余地はない。現在神の子供である多くの者でさえ、その時、神がいかにこの世を愛されたか、神の思いと計画とがどれほど彼ら自身のそれに優るものであったかを知り、驚き恥じいるであろう。
God’s thoughts
and plans
are above our own.
     一般にキリスト者は神の祝福が選ばれた教会のためだけのものであると信じているが、今、私達は考えていたよりも、はるかに神の計画は広いものであることを知り始めた。そして神は教会に 偉大なる尊い約束 を与えたけれども、またあがなうほどに、この世を愛されて豊かな摂理をこの世のために備えられていることをも知り始めた。ユダヤ人も、神の計画は自分たちだけのものであると考え、同じような誤りを犯した。

   しかし 定められた時 が来て、異邦人が神の愛顧を受けた時、神の恵みの広さを喜ぶだけの心の寛大さを持っていたイスラエルの残りの者は、その愛顧を異邦人と共に分かち合ったが、それ以外のユダヤ人は偏見と人間的伝統にさまたげられ、盲目となってしまった。

   だから、現在、全世界に祝福をもたらす千年時代の夜明けの光を見る教会の人々は、次第に明らかとなるその光に反抗し、その光の栄光と祝福に対して盲目とならないように注意すべきである。

Distortions
of truths.
    後に多くの人々を祝福するために、現在少数を選択するという、この神の計画と、カルヴィン派やアルミニウス派で代表されるこれらの歪められた真理との間に、どんなに差があることか、前者は、聖書の自由な恵みの教理を否定し、選びの教理を曲解しているし、後者は選びの教理を否定し、神の自由な恵みの素晴らしさを把握することに失敗している。
Calvinism says
God is wise
and all powerful,
but ignores love and justice.
     カルヴィン派は言う:神には完全な知恵があり、始めから終りまですべてをご存知である。神の目的はことごとく達成され、神は少数、すなわち教会以外の者を救う意図は全く持たない。神は永遠に救われる者をあらかじめ選び定められている。

   それ以外のすべての者は、同様に、永遠の拷問にかけられるべく、あらかじめ定められ選ばれていたのである。なぜなら、 神のすべての業は、世の初めから知られているからである。 

Armenianism says
God is loving
and just,
but ignores
wisdom and power.
     この見解は良い面も持っている。それは神の全知を認めているということである。もし、神の偉大さに必須の二つの性質、愛と正義を欠いていなかったら、この見解は理想的なものであったろう。

   しかし、その愛と正義は、どちらも1420億の被造物がこの世に生まれる以前から永遠の拷問へと運命づけられ、神の愛は空しい欺瞞であるとするカルヴィン派の主張は聖書に例証がない。神は愛であり、その御座の土台は正義であるからには、そのようなものが神の性質ではあり得ない。

   アルミニウス派は言う:その通り、神は愛である。だから、神が人類をこの世に創造したからには、人類に善を行うために外ならない。しかし、サタンは最初の両親を誘惑することに成功し、こうして罪が、そして罪によって死がこの世に入って来た。それ以来、神は人類を救うために出来るすべてのことをなし、その御一人子まで与えて下さった。

   それから6000年も経った現在でさえ、福音は人類のほんのわずかな部分にしか届いてないけれども、今後6000年以内には教会の寛大な協力によって、神はサタンかもたらした悪を取り除き、すべての人が少なくとも神の愛を知り、信じて救われるための機会を与えられる私達は信じ、また願っていると。

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God is the Master
of His purposes.

 

     この見解は、神を被造物に対して愛とあわれみに満ちた存在者として示す一方、神がそのあわれみの計画を達成するに十分な予知と能力に欠けている者であることを暗示している。

   この見解から見ると、神は人類に善を行おうと計画し務めたにもかかわらず、サタンが入りこみ、一撃のもとに神のすべての計画をぶちこわして、神が義を回復するために12000年も費やさねばならないほどに打撃を与え、その回復は今日生きている人々でさえ、まだ善を選ぶと同じようにたやすく悪を選ぶ可能性があるほどに遅々としているかのように見える。

   しかし、この見解に従えば、過去6000年間の1420億と今後6000年間の同数以上の人々は、神の彼らへの愛にもかかわらず、サタンが神の計画を妨害したという理由のために、永遠の滅びに陥るということになる。こうして神が一人を栄光へと救う間に、サタンは何千人を永遠の拷問へと導くのである。

     この見解は、サタンの知恵と力に対する人間の観念を高め、神の知恵と力に対する人間の評価を低めるものであるにちがいない。詩篇の詩人は、これに対して次のように宣言する。

彼が語ることはとこごとくなされ、彼らが命じることはことごとく守られる。 

   神はサタンによって不意を襲われることもなければ、その計画を妨害されることもない。神は過去にも、現在も常に変らず完全な支配者であって、終りの時には、すべてが神の計画の達成のために共に働き続けたことが明らかになるであろう。

カルヴィン派とアルミニウス派が教える選びと自由な恵みの教理は、お互いに理性とも聖書とも衝突するように見えるが、この二つの栄光ある聖書の教理は、時代の見地から見れば、完全に美しく調和するのである。

Rejoice!
Your deliverance draweth nigh!

 

   罪と死から人間を救う偉大なる輝かしい神の計画の大部分は。未来に横たわっていること。また、主イエスの再臨は、長い間約束され期待された祝福の成就の第一段階であることを理解すれば、初臨を待ちのぞんでいた、知識を少ししか持たなかったユダヤ人より更に熱心に再臨を待ち望むべきではないだろうか?

   悪と不正と死の時代が主による力の支配によって終りを告げることを知り、また義と真理と平和がすべての民のものとなることを知って、いったいだれが主の日の喜びを持って待ち望まずにいられようか?

キリストと共に苦しむなら、彼と共に支配するであろう。 

   という尊い約束に励まされて、現在キリストと共に苦しむ者は、頭を上げ、メシヤの近づくしるしを見て、私達の救いと栄光が近づいているのを知り、喜ばずにいられようか?いやしくも、主の祝福の使命と愛の精神に同調し得る者はすべての民にくる大きな喜び の接近のしるしとしての主の再臨を喜びをもって迎えずにはいられない。


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