Simeon and Jesus
The Passover
Jesus and Thomas
Jesus and Disciples
going to Emaus
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イエスが生まれた頃には、すべての人々が来たるべきイスラエルの王、かつイスラエルを通して世界の王となるメシヤを期待していた。しかし、その王の偉大さと力を示す模型と預言とによって眩惑されたため、その王が人々に祝福を持たらす前に、必要な罪人のあがないとして苦難と死とを味わうというもう一つの模型と預言とを彼らが見のがす原因となった。
これは、エジプトから彼らが救い出される前の過ぎ越しの中に、また、律法の契約が与えられた時に殺された動物の中に、また、毎年祭司によって行われたあがないの日の犠牲の中に予表として示されていたのである。彼らはまた、
キリストの苦難とそれに続く栄光とをあかしした。
預言者のことばを見のがしていた。(Ⅰペテロ1:11)
だから、イエスが
として来た時、彼らはそれを認めなかったのである。彼らは、おとずれの時を知らなかったのである。(ルカ19:44)彼に最も近い弟子たちでさえ、イエスが死んだ時、ひどく当惑したほどであった。彼らは悲しんで言った。
私たちは、イスラエルを救うのは、この人であろうと望みをかけていました。
(ルカ24:21)
明らかに、彼らのイエスへの確信は見当違いであったのである。彼らは、彼らの指導者の死が祝福を持たらす新しい契約の保証であって、契約の部分的成就であることを理解することができなかった。しかし、イエスが墓から復活したのを知ると、彼らのしおれた望みは再び生き返った。(Ⅰペテロ1:3)
そしてイエスが彼らから去る時、彼らは長い間、心に抱き続け、しばしば延期された希望について尋ねた。
主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか?
彼らは、それがいつ成就されるのかは知らなかったけれども、その希望が、概して正しかったということは、それに対する主の答えによって明らかである。
時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
(使徒行伝1:6、7)
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Pentecost
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神の計画は今、どんな変化を迎えたのだろうか?ということが、イエスが昇天した時、弟子たちの抱いた疑問であったに違いない。神の国に関するイエスの教えは、もっぱらたとえ話と、わかりにくいことばの中に表わされていたことを、私達は記憶しなければならない。
私には、あなたがたに言うべきことが、まだ多くあるが、あなたがたは今は、それに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。
しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるあろう。
(ヨハネ16:12、13、 14:26)
だからペンテコステの祝福が来る以前には、彼らは理解することができなかったのである。 |
Preaching to the Gentiles
"A people
for his name"
--A Bride
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ペンテコステの後でさえも、なされつつある神の計画の働きと、その最初の契約との関係を彼らがはっきりと十分に理解する前には、一定時間を要した。(使徒行伝11:9、ガラテヤ2:2、12、14) しかし、彼らが十分に明白に理解する以前でさえも、彼らが神の代弁者として用いられ、霊感を吹き込まれた彼らのことばは、多分、彼ら自身が理解していた以上に、真理を明快に深く表現していたであろうと思われる。例えば、ヤコブの説教を読むと、彼はこう言っている。
神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民(花嫁)を選び出された次第は、シメオンが既に説明した。預言者たちの言葉もそれと一致している。
すなわちこう書いてある「その後(これらの人々が異邦人の中から選び出された後)私は帰って来て、倒れたダビデの幕屋(地上の支配)を建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを建て直そう」
(使徒行伝15:14~16)
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What is the
great hidden mystery of God?
"Christ" means "Anointed"
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ペテロを通して最初の異邦人に、またパウロを通して異邦人一般に、福音を伝えたということの中に、ヤコブは、神の摂理がこの時代の間に、ユダヤ人と異邦人が同じように愛顧を受けることにあることを理解しはじめていた。そして彼は預言を調べ、預言がそう語っているのを発見した。それからこの福音時代の働きが完成した後、肉的イスラエルへの約束が成就されるということを発見した。長い間隠されていた偉大なる秘密が、次第に少数の者――神の特別な友である聖徒たち――によって理解されはじめた。
パウロは、(コロサイ1:27)この奥義は、時代にわたり、世代にわたり隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたことを次のようなことばで断言している。
あなたがたのうちにいますキリストは栄光の望みである。
これは以前には全く隠されていた神の偉大な秘密である。そして特別なクラス――聖徒または献身した信者――を除くすべての人からは、いまだに隠されているのである。しかし、
あなたがたのうちにいますキリスト
とは、いったい何を意味するのだろうか?私達はイエスが聖霊によって油注がれたことを知っている。(使徒行伝10:38)
こうして彼はキリスト――すなわち、油をそそがれた者――であることを認める。キリストという言葉は、油そそがれた者という意味だからである。使徒ヨハネは、私達(献身した信者)が受けた私達の中に留まっていると語っている。(Ⅰヨハネ2:27)
こうして、福音時代の聖徒は、王となり神の祭司となるために油そそがれた人々である。(Ⅱコリント1:21、Ⅰペテロ2:9)――彼らは、そのかしらであり主であるイエスと共にエホバの油そそいだ者――キリスト(The
Christ)を形成するのである。
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"The
Christ "
...not one member, but many.
1 Corinthians 12:14 |
私達も油をそそがれた者であるというヨハネの教えと一致して、パウロは、過去代々にわたって隠され、今やその聖徒に明らかに示されたこの秘密が、キリスト(油そそがれた者)は一人ではなく、多くのメンバーから成り、ちょうど体が一つであっても肢体は多くあり、また体のすべての肢体が多くあっても体は一つであるように、すべてのメンバーは油そそがれた者――キリストであるということを確証している。(Ⅰコリント12:12:28)
イエスは教会のかしら、または主となるために油そそがれ、教会はその体(また別の表現によればその花嫁)である。(エペソ5:25~30)それらが一つになって約束の
子孫
――偉大なる救い主――を形成するのである。
もし、キリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
(ガラテヤ3:29)
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"I am the vine, ye are the branches."
John 15:5
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使徒パウロは、教会をあらゆる種類の罪から注意深く保護し、更にイエスのことを次のように語っている。
万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生まれた方である。それは、ご自分がすべてのことにおいて第一の者になるためである。
(エペソ1:22、コロサイ1:18)
なおまた彼は、人間の体のたとえをかりて、素晴らしく、力強く、イエスと私達との親密な関係を示している。この同じ一体性のことを、イエスは
私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。
と語って教えている。(ヨハネ15:5)
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The top-stone is a perfect pyramid.
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ピラミッドの形
キリストのメンバーとして、また油そそがれた団体のメンバーとして私達が、主イエスと一体となることは、ピラミッドの形によって、よく描かれている。
頂上の石は、それ自体が完全なピラミッドである。他の石は、その下に積み上げられるけれども、頂上の石の特長ある線のすべてに調和するならば、全体の魂は完全なピラミッドになる。
これは
子孫 ――
キリスト
のメンバーとしての私達の位置を何とよく描き出していることだろう。頭と連なり、完全に調和してこそ生きている石としての私達は完全であるが、それから離れれば私達は無に等しい。
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*Sinaitic
MS. omits spiritual before sacrifices. |
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完全な者、イエスは天に上げられた。そして今私達は、その模範に従って形づくられ仕上げられるために、また神の建物として建てられるために、私達自身を彼に献げるのである。普通の建物には隅のかしら石はない。しかし、私達の建物には隅のかしら石、頂上の石がある。
見よ、私はシオンに選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
――
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる※いけにえをささげなさい。
(Ⅰペテロ2:4~6)
私達は、かしらであるイエスと、その体である教会の結合が間もなく完成するであろうと信じている。 |
"Humble yourselves"
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注)※ シナイ写本はいけにえの前に
霊
ということばは入っていない。
私達は、偉大なる建築家の指導の下に、切磋琢磨に耐えなければならない。多くの変換を体験しなければならない。模範に私達を適合させなければならない。そして私達の中に、その建築家の能力と理想的状態とを獲得するためには、神の意志の達成を妨げる自分自身のいこじな意志をすべて捨てる必要がある。私達は、子供のように
謙遜
を身につけなければならない。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵を賜うからである。だから私達は、神の力強い御手のもとに自分自身をへり下ろう。
そうすれば、神は、私達のかしらであり先駆者である方を高められたように、来たるべき時に(Ⅰペテロ5:5、6)
私達をも高めて下さるであろう。(ピリピ2:8、9)
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これは全く素晴らしいメッセージなのである。私達が偉大なる高い召しに関して学ぶために神のことばにくる時、すべての預言者が雄弁に、私達にくる恵み(Ⅰペテロ1:10)――愛顧または祝福――を言明していることを発見する。
今までは、模型や、たとえ話や、おぼろげな言葉で語られたが、今や明瞭にされたのである。油そそがれた者(キリスト)の集団が、賞与を求めて走るために召されている
狭き道
は光を放って輝き、公然と現われたのである。これは、確かに以前には考えられなかった秘密であった。すなわち、神は、一人の救い主のみではなく、多くのメンバーから成る救い主をおこされることを意図されているのである。
これこそ、福音時代の献身した信者が到達する特権として与えられている
高い召し
である。イエスは、人間であった間には、弟子達にこれを明らかにして見せようとはされなかった。そして彼らが油そそがれ、新しい性質に生まれ変ったペンテコステの時まで待ったのである。パウロの説明から
新しい被造物
以外の者は、この高い召しを理解することができないことが分る。彼はこのように言う、
私達が語るのは隠された奥義としての神の知恵である。それは神が私達の受ける栄光のために世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。
…この目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられたのである。そして、それを神は、御霊によって私達に啓示して下さったのである。
(Ⅰコリント2:6~14)
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The
Christ
(Head and Body)
is the "seed of Abraham"
which is to bless
all the families
of the earth. |
ガラテヤ人への手紙の中で、パウロは、その秘密の全体を明らかにして、アブラハムに与えられた契約がどのようにして成就されることになっているかを示している。彼は、イスラエルに与えられた律法は、最初の契約を妨げなかったこと、(ガラテヤ3:15~18)すべての国民を祝福するアブラハムの子孫はキリストであることを示している。(16節) |
キリストは、霊の油をそそがれたすべての者を含むという既にほのめかされた概念を進めて、彼は言う。
キリストに合うパプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。……もしキリストのものであるなら、あなたがたは(キリストと共に)アブラハムの子孫であり、アブラハムになされた約束による相続人はのである。
(27、29節)
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Why was it necessary
to keep the mystery hidden?
"Behold the Man"
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同じ理論に従って彼はアブラハムはエホバの模型であり、サラは契約または約束の模型であり、イサクは、キリスト(頭と体)の模型であることを示している。(ガラテヤ4:)そして付け加えて言う、
兄弟たちよ、あなたがたはイサクのように約束の子である。
(28節)こうして福音時代がキリストを成熟させ始めるまでは、神の計画は、模型の中に隠されていたのである。
そこには、この秘密が隠される必要が存在したのである。さもなければ、そのように隠されはしなかったであろう。それは絶対に必要であった。なぜなら、人類にその計画を十分に明らかにしたならば、それを失敗させることになったであろうからである。もし人類がそれを知っていたならば、彼らは栄光の主も、その体である教会も十字架につけはしなかったであろう。(Ⅰコリント2:8)もし、
神の計画が世界から秘密にされなかったなら、人間の救いの君としてのキリストの死が邪魔されたであろうのみならず、キリストの苦しみにあずかる者としての教会の信仰の試練も、それによって妨げられたに違いない。というのは、
世が私達(相続者としての)を知らなかったのは(同じ理由によって)父を知らなかったからである。
(Ⅰヨハネ3:1)
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奥義としてのキリスト
世界にとって最大の秘密は、ただ神の計画と、その計画の体現であるキリストだけではなく、この小さき群が
神につける民
(peculiar
people)のメンバーであることをしるしづける歩みへと召されている独特な経過である。
ナザレのイエスのような素晴らしい能力を持った人間が、その注目を政治、律法、商業、またはもっと一般に受け入れられる宗教へと向けたとしたら、偉大な尊敬を集めるような人物になったかも知れないのに、その時間と能力とを、イエスが費やしたように費やさねばならなかったということが、世界の人々にとっては不思議であった。
人間の考えによれば、彼は自分の命を愚かにも浪費したのである。彼らは言った、“彼は悪魔にとりつかれ、気が狂っている、”彼の生涯と教えは、人々にとっては怪奇であった。人々は彼を理解することができなかった。
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