世々にわたる神の計画

 

第3章

 

理性の光に照して見た神の啓示としての聖書

 

bible.gif (26819 bytes)

――聖書の主張とその確実性への裏付け

――その古さと保存

――その道徳的感化力

――著者の動機

――記事の一般的性質

――モーゼの書

――モーゼの律法

――モーゼが制定したその独特な政治

――それは聖職者の制度ではなかった

――為政者への教訓

――律法の前に同等な富者と貧者

――人民の権利の保護

――祭司は特権階級ではない、祭司はいかに支えられるべきかetc

――外国人、未亡人、孤児、僕への圧制防止

――聖書の預言者

――律法と預言者と新約聖書著者の間に共通する一つのきずながあるか?

――奇蹟は不合理ではない

――合理的結論

 

 

TorchA.jpg (1266 bytes)
BibleRuthsB.jpg (7075 bytes)

A reasonable, thinking mind
will examine
God’s Word

    聖書は文明と自由を照らす光である。その社会に及ぼす永遠の影響力は、最も偉大な政治家たちによって認められてきた。

  もっとも、偉大な政治家といえども、聖書を支持してきたとはいえ、その真の教えをひどく誤解しているような信条の色眼鏡を通して聖書を見てきた人々である。この貴重な古い書物は、はからずも、その愛読者によって、甚だしく誤解されている。多くの人々が聖書のために命を捨てた。

  しかし、彼らが長い間尊敬し受け継いできた先祖の伝統を支持することによって、その敵が与えるよりなお一層の禍をこれに与えてきた程である。願わくは、彼らがその誤りに気づき、聖書をよりよく研究して、聖書の敵から武器を取り去ることを祈る者である。

Bible1.jpg (5795 bytes)
Gutenberg Bible,
printed 1452-1455 in Mainz, Germany, by Johannes Gutenberg

The Bible has been miraculously preserved

Bible33Tyndale.jpg (18877 bytes)
The Tyndale Bible

    自然界の光は、自然が与えることができる以上の神の啓示を期待するように私達を導くので、神の啓示としての真実性を持つあらゆる主張を研究するためには、理性的な思慮深い態度が準備されるべきである。

  聖書はそれ自体、神からの啓示であると主張している。そして、それには私達にその主張の正確さを裏付ける十分な証拠を与えると共に、綿密な研究は必ずそれがまさに神の言葉であることを示す、より完全な確実な証拠を現わすものであるという希望をも与えてくれる。

     聖書は3000年もの波乱の中を生き延びてきた存在する最古の書物である。人類は、あらゆる可能な手段によってそれを地上から追放しようと、隠し、或いは焼き捨て、或いはそれを所有した者を死刑にするなどしたが、中でも最も厳しい残酷な迫害は、それを信じた者に対してなされた。それにもかかわらず、今だに聖書は生きている。

  今日、聖書の敵は死んで、その墓に眠り、聖書の名を汚し、その力を打ちこわすために書かれた数多くの書物のことは忘れられているが、聖書は地上のすべての国のすべての言葉に翻訳され、その数は200以上にのぼっている。

  これを撲滅しようとした前代未聞の努力にもかかわらず、この書物がそんなに長い間生き残っているという事実は、少なくとも、その著者である偉大な存在者、神がまたそれを保存していることを示す強力な状況証拠であると言うべきであろう。

 

ISQumran.jpg (5924 bytes)
Qumran Caves

ISScroll2A.jpg (2453 bytes)
Dead Sea Scrolls

    Dating from 100 B.C. to 100 A.D., the Dead Sea Scrolls were preserved in clay urns in the Qumran caves until their discovery in 1948. 
   Every book in the Old Testament, except Esther, is represented.

ISStCatherinesA.jpg (12596 bytes)
St. Catherine's Monastery

ISCodex.jpg (3144 bytes)
Sinaitic Manuscript

    Priceless parchments of the Sinaitic Manuscript, 4th c. A.D., were preserved within the walls of St. Catherine’s Monastery in the heart of Sinai.  Discovered in 1859 A.D. by Count Tischendorf, the Codex Sinaiticus contains the New Testament and parts of the Old Testament.

Bible7GenevaA.jpg (3401 bytes)
The Geneva Bible

    また、聖書の道徳的感化力が一様に良いことも真理である。聖書を注意深く研究する人は、必ず清い生活へと高められる。聖書以外の宗教的書物や種々の科学的書物がある程度は人類を向上させ幸福をもたらしたとはいえ、他のすべての書物を合わせても、苦悶する被造物に喜びと平安と幸福をもたらすことはできない。富める者にも、貧しい者にも、知識人にも、無知な人にも、それらをもたらすことができたのは聖書だけであった。

  聖書は単に通読する書物ではない。それは熟読吟味すべき書物である。聖書は神の言葉であって、神の思いは人の思いより高く、その道は人の道より高いからである。

  もし、神の無限の計画と思想とを理解したいと思うならば、私達の全エネルギーを注いでそれに当らなければならない。真理の最も豊かな宝は、必ずしも表面に横たわっている訳ではないからである

The Bible points and refers to one prominent character:
Jesus of Nazareth.

Jesus13A.jpg (4363 bytes)

    この書物は、終始一貫して神の子、ナザレのイエスという一人の卓越した人物を指し示し、また、彼について言及している。最初から最後まで、イエスの名と役目と働きが特筆されている。ナザレのイエスという一人の人間が生きていたこと、そして当時かなり人に知られていたことは、聖書以外の歴史上の事実でもあり、様々に、また十分に確証されている。

   更に、このイエスがユダヤ人とその祭司の反感を買って十字架上にはりつけにされたことは、新約聖書の記者の外に歴史が証明する事実である。新約聖書の記者たちは(パウロとルカを除いて)ナザレのイエスの個人的知り合いであり、また弟子であって、彼らの記事は、イエスの教えを記したものである。

    存在するいかなる書物であろうと、必ず、その著者の動機を含むものである。従って、私達も、聖書の記者達がどのような動機によってこの人物の教えを信奉するのかを調べてみよう。イエスは罪人として、ユダヤ人によって死を宣告され、十字架上にはりつけにされた。

   ISSiloamA.jpg (8766 bytes)
Pool of Siloam

Jesus healed a blind man
at the Pool of Siloam John 9:11.

     The pool is one of the few undisputed localities in ancient Jerusalem. Waters from the Spring Gihon flow into the Pool of Siloam through a tunnel which was engineered by King Hezekiah in 715 BCE. Hezekiah's 1750 foot tunnel can still be traversed by foot today.

ISGolgothaA.jpg (6993 bytes)
Golgotha
"And he bearing his cross went forth into a place called the place of a skull,
which is called in the Hebrew Golgotha."
John 19:17

ISGardenTomb1A.jpg (5664 bytes)
Garden Tomb
"Now in the place where he was crucified there was a garden; and in the garden
a new sepulchre..." John 19:41

 

The disciples
were committed
to an unpopular cause.

 

 

 

 

Jesus41Cross.jpg (3997 bytes)

    イエスを生かしておくべきではないと主張して、その死をを要求したのは、彼らの中でも最も宗教的な人々であった。イエスの教えを信じ、それを広めようとすれば、彼らは、軽蔑、剥奪、残酷な迫害、生命の危険を物ともせずに立ち向かわねばならなかった。

  事実、ある人々は、苦しんで殉教の死を遂げたのである。例え、イエスが生存中に、その素晴らしい人間性を生活と教えの中に示したとしても、彼の死後も、しかも恥辱に満ちた死に方をしたにもかかわらず、多くの人々がその教えを信奉した動機は一体なんであろうか?

  聖書の記者達が勝手に物語を創作して、イエスを想像上の理想的英雄に仕上げたと仮定しても、イエスが神の子であり、彼は超自然的方法で生まれ、超自然的能力を持ち、らい病人を癒し、生まれながらの盲人の目を開き、耳しいの耳を聞こえるようにし、死人をよみがえらせたと書いた後に、その物語の結論として、たったひとつかみの敵がイエスを重罪人として処刑した時に、イエスの友人や弟子達(その中には著者自身もいたはずである)が、みんな彼を見捨てて逃げてしまったとはなんとバカ気た仮定ではないか?

What motivated
the writers of Scripture?

Jeremiah.jpg (3780 bytes)
Jeremiah

    宗教と関係ない歴史が、聖書の記述とある一点で一致しないという事実によって聖書の記録が真実ではないと考えるべきではない。そのように結論を下す前に、聖書の記者達がなぜ偽りの記事を書いたのかという動機を研究し、証明すべきであろう。

  一体、何が彼らをそうさせたのであろうか?彼らは、それによって富、名声、権力またはその他のこの世的利益を求めたと考えられるであろうか?イエスの友人達の貧しさや、彼らの英雄であるイエス自身の不人気は、それと相反する。

  イエスが罪人、平和を乱す者として死に、名声など残さなかったという事実は、イエスの教えを再建しようとした人々に羨望的名声も地上的利益も与えたとは考えられない。むしろもし、それがイエスのことを宣べ伝えた人々の目的であったとするならば、そうすることによって彼らが受けるものは恥辱、迫害、投獄、むち打ち、死刑であることを知るや否や、それを放棄したはずではなかったか?

  次のことが明白である。自分の家庭も名声も名誉も命も犠牲にした人々、この世の満足のために生きたのではない人々、その目的は友を高めることであり、最高の道徳を友に教えた人々、彼らには一つの動機があるのみならず、その動機は清く、その目的は抜群に崇高なものであったに相違いない。

  そればかか、純粋な善良な動機に基いてなされた彼らの証言は、一般の著者のそれと比べて十倍もの重みと価値を持つものであると言っても言い過ぎではない。彼らは狂言者ではなく、健全な理性の持ち主であり、彼らの信仰と希望には相当の理由を持ち、かつ、その合理的確信には根気づよい忠誠を持ち続けた人々であった。

The Biblical writers were honest and faithful
to the Lord.

Prophets4A.jpg (4374 bytes)

    同時に、ここで述べたことは、旧約聖書の記者達にも適用される。彼らは主として主への忠誠という点で著名であり、その歴史は、彼らの徳と忠誠を伝えると同時に、弱さや欠点をも記録している。この事実は聖書は作り上げられた歴史であり、人に一つの宗教組織への畏敬の念を抱かせるために計画された書物であると考える人々を驚かせるに違いない。

   聖書には、これが確かに真理であると印を押すような卒直さがある。一人の人間を偉人として表わし、また特に、彼の著述が神の霊感によって書かれたことを示そうと望むなら、その人間を最後の最後まで欠点のない高潔な人物として描くはずである。聖書がそのような径路をたどっていないという事実だけを見ても、それが欺満の書物ではないことを証明している。

Examine the
character
of the writings

     さて、私達は神の計画と意志の啓示を期待すべき理由を持ち、その啓示であると主張する聖書が純潔な認めざるをえない動機を持つ人々によって書かれたことを知った今、更に進んで果たして神の霊感によって書かれたと主張する聖書の性質と教えが、私達の信じる神の性質と一致するかどうか、また、その内容が真理性に耐えるものであるかどうかを調べることにしよう。

The writers
were acquainted first hand
with the facts

MatthewA.jpg (5256 bytes)

歴史的記録

  新約聖書の最初の五書と、旧約聖書のいくつかは、その著者が知っている事実を、彼らの性質によって保証した歴史である。それらは、彼らが親しく、また十分に知っている事実に関する真実を語ったというにすぎず、特別な啓示を必要としなかったことは明白である。

   しかし、神は、人類に啓示を与えることを望まれたので、聖書の中の過去の出来事の歴史は、神の啓示にかかわりがある。神は、この事業のために選んだ正直な著者が啓示に必要な十分な事実をつかむように計画し、啓示が合理的な推論を導くのに十分な裏付けを持つようにしたのである。聖書の歴史的部分の信頼性は、全くその著者の性質と動機とによるものである。善良な人は偽りを言うことができない。

   清い泉から濁った水が流れ出ることはない。そして、これらの記事の一致した証言がその著者の言動に対する疑いを抱かせない。

Jesus5BabeTempleA.jpg (5431 bytes)

     聖書の中にある書、たとえば列王記、歴代誌、士師記などは、単に当時の主な出来事や人物の歴史を伝えているにすぎないと言ったところで、それが聖書の真理性を無効にすることはない。ヘブル書は、律法、預言と共に歴史をも含んでおり、その歴史、系図などは、約束のメシヤがアブラハムという特定の系図から来るという期待のために、著しく詳細にわたり明記されている。

  今日の20世紀の光に照らして見れば、これらの歴史的特定の事実の記録は優雅であるとは言えないが、当然のことであろう。たとえば、モアブとアンモンの国の起源の明細な記録や、アブラハムやイスラエル民族との関係は、多分その歴史家の心には彼らの民族の出生の歴史を知るためには必要なことであったのかも知れない。(創世記193638

  同様にユダヤの子孫の記事が詳細にわたり載っている。そこから、王、ダビデが生まれ、イエスの母マリヤやその夫ヨセフの系図がアブラハムにまでさかのぼってたどられている。(ルカ323313334、マタイ12~16)完全に確立された系図の必要性が、彼らにとって重要であったことは疑う余地がない。

  この部族から、イスラエルを支配する王、約束のメシヤが来るはずであったし、他の所には、こんなに微に入り細にいった記事は見られないからである。(創世記38

We find a reason
for details

     聖書に記録されている他の歴史的事実、または歴史ではなく単なる道徳的論説であっても全体を損なうことなく取り除くことができるものがあるが、同じような、または異った理由があるに違いない、私達は少しずつその必要性を知りつつある。

  しかし聖書の中にある部分が不道徳であると言い得る者はだれもいない。更に注意すべきことは、同じ事実が多かれ少なかれ、すべての国語に微妙に語られていること、聖書の翻訳者がそれらの記録を忠実に訳すことに熱心であり、今日、私達がするように洗練された表現を選ぶという点において欠けていた時代に生きた人々であったことである。同じことが、古代の聖書の表現についても言えると推測できる。

  この点を考慮すれば、どんなに気むずかしい人でも新約聖書の表現に異議をとなえることは出来ないであろう。

 

Moses1A.jpg (14827 bytes)


Moses4A.jpg (10734 bytes)
Moses Leading Israel Out of Egypt

モーゼの書とその律法

     聖書の最初の五書は、モーゼの書 として知られている。しかし、それらがモーゼによって書かれたとはどこにも記されていない。それらがモーゼによって書かれた、またはモーゼの監督下に書かれたという推論には一理ある。

  しかし、モーゼの死とその埋葬の記事は、彼の書記によって付け加えられたと考えるのが当然であろう。この五書がモーゼによって書かれた証拠がないとして、このほとんど確定的事実を否定することは出来ない。

  なぜなら、もしそれが他の誰かによって書かれたとしても、その主張を貫徹するためには、必ず、これらがイスラエルの偉大な指導者であり、大政治家であった人間によって書かれたと言わねばならなかったからである。(申命記31927)ここに一つ確かなことは、モーゼがヘブル民族をエジプトより導き出したということである。

  モーゼは、その五書に示されているように律法の下にヘブル民族を統一し、そのヘブル民族は、一般に知られているように、3000年以上もの間、これらの書をモーゼから与えられた賜物として、それを神聖に保ち続け、一字一句も変更してはならないものとした。従って、この事実は、五書の純粋性を確証するものである。

Earth1A.jpg (3719 bytes)

 

"He stretcheth out the north over
the empty place,
and hangeth
the earth
upon nothing."
Job 26:7

     モーゼのこれらの書は、それが書かれた時代の唯一の信頼性のある現存する歴史を含んでいる。中国の歴史は、創造で始まり、神が小船に乗って海に出て、地の魂を取って水に投じた。

  すると、それが世界になったと伝えている。しかし、その物語は、全体として全く根拠に欠け、子供の知恵でさえ信じるに足りないものである。

  これに反し、創世記の記事は、創造者であり、最初の有知的根源である神が、すでに存在していたという合理的断定に始まる。それは、神には始めがないことを示し、次にその業と、その業の起源と組織的進展とを示している。

  はじめに神は天と地とを創造された。そして地球の起源に移り、神が人類のために地球を準備された6日(期間)に論及している。この6日間の記述は、4000年にわたる科学の蓄積の光によって、十分に確証されている。

  だから、一人の人間の知恵が3000年間の人類の総合的知力と多額の金銭と近代技術の助けを伴った研究に優るものであるというより、その著者、モーゼが神の霊感を受けてこれらを書いたという方がはるかに理性にかなうであろう。

The Mosaic Law was unequaled.
Today we base our laws on the Law of Moses

モーゼの律法

     次に、これらの五書の中に示されている律法を見ることにしよう。その律法は、彼らの時代以来、19世紀の今日に至るまでその類を見ない。今日の律法は、その原理をモーゼの律法に依存し、またモーゼの律法が神から出たものであると認める人々によって制定されたのである。

Moses6A.jpg (15596 bytes)
Moses Teaching the People of Israel

 

    十戒は、モーゼの律法全体の梗概であって、その十の戒めは、これを研究する者を驚かさずにはおけない程の礼拝と道徳の掟である。

  もしこの掟が、かつて世に知られず、現代になってギリシャ、ローマ、バビロン(モーゼの律法よりずっと後に盛衰興亡した国々)の廃墟や遺跡の中から発見されたならば、人々は、これを超自然的とまでは言わなくても驚嘆したであろう。

  しかし、私達は、それに慣れ親しんでいるので、ごく少数の人々を除いて、その真の偉大さに気づかない程に無頓着になってしまっている。勿論、十戒はキリストのことを教えてはいない。それはキリスト者に与えられたのではなく、ヘブル人に与えられたのであり、あがないの信仰を教えるものではなく、人間に自分自身の罪深い状態を教え、あがないの必要性を教えるものである。

  十戒の本質は、キリスト教の高名な創始者によって、次の言葉の中に堂々と要約されている。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛せよ自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ(マルコ123031

The Israelites lived under the government
of God

TABPriesthood.jpg (3735 bytes)
The Levitical Priesthood

     モーゼによって制定された政治は、古代、現代を通じてその類を見ない。というのは、その政治が創造主、自ら制定した政治であるという点、人間は神に対して責任を負うべきものであるという点、そして間もなく分るように、それが理性によって教えられた神の性質と完全に調和するという点において、他のすべての政治と異なっているので、彼らの宿営の中央にある幕屋の中には、彼らの王としてのエホバの存在を示す至聖所という小屋があり、そこで彼らは、超自然的方法によって国家行政の秘訣を学んだ。

  幕屋を完全に管理する祭司職の階級が設けられ、人々は祭司を通してのみ、エホバに近づき、交わることを許された。ここで、次のように考える人があるかも知れない。

  彼らもやっぱり祭司の名誉と利益のために人民の軽信に乗じて恐怖心を刺激し、人民を支配することが祭司職という組織の目的であったのか と。けれども性急に物ごとを憶測してはいけない。

The Tabernacle,
in the center
of the Camp, had a manifestation of God’s presence in its Most Holy apartment.

TABMostHoly.jpg (2336 bytes)
Ark of Covenant in the Most Holy

TabPurpCourtA.jpg (19601 bytes)

   事実によって調べる良き機会がある時に、事実によらず、すぐ結論に飛びつくのは理性的とは言えない。反ばくできないような証拠がその憶測の誤りを示している。

The privileges
of the priests
were limited

TabPriestMercy.jpg (3967 bytes)
Priest in
Most Holy

      その祭司職の権利と特権には限度があり、彼らには民事的な権力が全く与えられず、その職務を利用して人民の権利や良心を損なう機会は全くなかったのである。この規定は、自らが祭司であったモーゼによって定められたものであった。

  エジプトの束縛からイスラエル民族を解放する神の代理人として、中央集権的政治をしき、モーゼは力と権威において独裁者の立場に立たされた。

  けれども、その柔和な性質ゆえに、実際には人民の公僕となり、任務のために命を消耗する程に働いた。その意味では、その政治は民主主義であったと言える。しかし誤解してはならない。

A theocratic government
was established

Moses3A.jpg (4436 bytes)
Moses

 

 

 

 

EldersA.jpg (6063 bytes)
Elders of Israel

  イスラエルの政治が民主主義だったと考えるのは無神論者の評価であって、その政治自体が主張するところは神権政治なのである。なぜなら、その律法は神によって、モーゼを通して与えられ、修正は許されなかったからである。

  彼らは、その律法典につけ加えることも、それから削除することもしてはならなかった。ここから分るように、イスラエルの政治は、古今を通じていかなる政治にも類を見ない独特なものであった。

  主はモーゼに言われた「イスラエルの長老たちのうち、民の長老となり、つかさとなるべきことをあなたが知っている者70人をわたしのもとに集め、会見の幕屋に連れてきて、そこにあなたと共に立たせなさい。

  私は下ってそのところであなたと語り、また私はあなたの上にある霊を彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に民の重荷を負い、あなたがただひとりでそれを負うことのないようにするであろう。(民数記111617、真実な正直な政治家で柔和であったことを示す例として2430節も見よ。)

  モーゼはこれを繰返して次のように言っている。そこであなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなた方のかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、50人の長、10人の長とし、またあなたがたの部族のつかさびととした。(申命記115、出エジプト記181326

This form of government was calculated
to cultivate the
spirit of true liberty

 

 

 

If Moses had been ambitious,
he would have
misused his power

 

Moses8Aaron.jpg (12676 bytes)
Moses anointing Aaron High Priest

   この偉大なる律法家、モーゼは、人々の政治を祭司の血統である彼の直接の親族の支配下に委ねて自分自身の権力を強め不朽のものにしようとすることなく、また、自分自身の宗教的権力を人々の権利と自由を拘束することに使うことなく、むしろ自由の精神を開拓するような政治の形体を人々に授けたのである。

  他の国の歴史や支配者たちはこれに匹敵するものではない。どの場合も、支配者というものは皆、自分自身の増強と、より大きな力を求めてきた、共和政体を確立しようとする場合でさえも、必ず伴うのは、彼ら自身の権勢を不朽にするために人々にこびへつらうことであるように見える。

  モーゼのような境遇に立つ野心家であれば誰でも、巧みなくわだてと欺きを人民の上に振るって自分自身と自分の家族に権力を集中しようと懸命になるであろう。まして、モーゼのようにすでに宗教的権力を持つものとして民族の中に存在し、神によって治められるべきことであるという国の主義があり、幕屋のようなものがある状況では、横暴きわまる独裁専制君主となることはいとも簡単であったに違いない。

  このような律法をつくり、このような民族を支配した有能な人間が、自分の方針の傾向を見通す含蓄に欠けていたとは考えられない。こうして、人民の政治は完全に人民の手中に置かれたのである。ただ、彼らが判断しかねるような重要な問題はモーゼ自らが処理するように規定されていたが、その場合でも、モーゼの所に持ち込まれる以前に、すべてのことが彼ら自身の判断の下に置かれていたのである。

あなたがたで決めるには難しい事は、私の所に持って来なければならない。私はそれを聞くであろう。(申命記117

The people
asked
for a king

SamuelA.jpg (5905 bytes)
Samuel anointing
Saul king

共和政体のイスラエル

ここに見られるように、イスラエルは神の権限に基づく共和国であった。聖書は、人民による人民のための政治 ではなく、王権政治によって人民を支配することを認めていると考える人々は、この共和政体が400年以上も続いたちう事実に注目すべきである。

そして、その後、主の許可を得ずして 長老 の要求によって王権政治へと変えられたのである。当時、非公式の大統領ともいうべき位置にあったサムエルに主は語った。民がすべてあなたの言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、私を捨てて、彼らの上に私が王であることを認めないのである。

神の勧めによって、サムエルは、王権政治を採用することによって、いかに彼らの権利と自由が損われ、いかに奴隷的地位に堕落するかを説明したが、人々は、彼らを取り巻く他の国々の王権政治を羨み、それに心奪われていた。(サムエル8622

当時の人々の王を持ちたいというこのような願望を考えれば、モーゼがいかに有能に国の頭としての位置を確立し、支配したかに驚嘆しない人があろうか?


Prophets1A.jpg (3847 bytes)

Judges –
"Ye shall hear the small as well as the great..."
Deuteronomy 1:17

TabBreastplateA.jpg (2806 bytes)

Breastplate of the High Priest which had the Urim and Thummim

TABPriestHigh.jpg (13543 bytes)
The High Priest

イスラエルが全体としては一つの国であったにもかかわらず、その種族的区別はヤコブの死後ずっと認められていた。各々の家族、または種族は、同意によって代表者もしくは族長となるメンバーを選んだ。

  この慣例は、エジプトにあって奴隷の身分であった長い期間中でさえも持ち続けられていた。彼らは、族長、または長老と呼ばれ、モーゼが名誉と権威を分かちあったのは、それらの族長たちであった。

神によって、人々の支配者に与えられた教えは、単純と清潔の模範である。モーゼは執政者の面前で民に語った。

あなたがたは、兄弟たちの間の訴えを聞き、人とその兄弟または寄留の他国人との間を正しくさばかねばならない。あなたがたは、さばきをする時、人を片寄り見てはならない。小さい者にも、大いなる者にも聞かなければならない。

人の顔を恐れてはならない。さばきは神の事だからである。あなた方で決めるにむずかしい事は、私のところに持ってこなければならない。私はそれを聞くであろう。(申命記11617

  モーゼの死後、彼らが決めるにむずかしい事は、大祭司を経て直接神に伝えられ、神はウリムとトンミムによって肯か否かを答えられた。

     これらの事実を考えると、モーゼの五書と言われるこれらの書が、人々の上に権力を振おうとたくらむ悪い祭司によって書かれたとする説はどうであろうか?彼ら自身の一種族であり、イスラエルの偉大な指導者である人間が、自ら求めるその目的を破壊するような記録を偽造するであろうか?

  それは、神の勧めによって政治と宗教を分離し、人々の手中に政権を委ねたことを証明する記録だからである。このような結論が合理的と言えるであろうか?

"Jubilee"
– the economic leveler

 

Jubilee.jpg (15907 bytes)
Blowing the Jubilee Trumpets

     繰り返すが、20世紀の現代の最も進歩した文明の律法であろうとも、富める者も、貧しい者も律法の前には平等な責任を持つことを、モーゼの律法以上に示してはいない、という事実は注目に価いする。モーゼの律法には、いかなる差別も絶対にない。

  50年毎の返還――ヨベルの年というものを規定した。

  25:9、13232730)事実、彼らは彼ら自身を兄弟と考え、それに従って行動し、お互いに報酬を求めずに助け合い、利子をとって貸し借りをしてはならないと教えられた。(出エジプト2225、レビ253637、民数記265256

All the laws were
read aloud

ReadLawB.gif (14414 bytes)

God’s government protected Israel
from dictatorship.

     人民の権利を侵害しようとするもくろみを防ぐために、すべての律法は公表された。律法を写したい人には自由に写せるような方法が設けられ、また最も無学な人々にもこれを知らせるため、祭司が7年毎の祭りの際に、これを人々の前に読んで聞かせることが義務づけられていた。(申命記311013

  このような律法と制度が、人々の自由と幸福を詐取しようとたくらむ悪人の手によって考え出されたと想像することが理性にかなっているだろうか?

  外国人と敵の権利を保護することに関しては、モーゼの律法は、3200年も時代に先だっている。今日の最も文明的社会の律法といえども、その公平と博愛という点ではモーゼの律法に匹敵しない程である。

Laws displayed love for the stranger

RuthA.jpg (5088 bytes)
Ruth and Boaz

他の国の者にも、この国に生まれた者にも、あなたがたは同一のおきてを用いなければならない。私はあなた方の神、主だからである。(出エジプト記1249、レビ記2422

もし、他国人があなた方の国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人をあなたがたと同じ国に生まれた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。(レビ記193334

Animals were not forgotten, but were protected by laws of kindness.
PKYokedA.jpg (3738 bytes)
Animals were not to be unequally yoked.

もし、あなたが敵の牛、またはロバの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。

もしあなたを憎む者のロバが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸してこれを起こさなければならない。(出エジプト2345

     モーゼの律法では、口をきけぬ動物でさえも、忘れてはいない。動物虐待は、人間のそれと同様に厳しく禁じられている。脱穀をする牛に口輪をかけてはならない。

  働く者はすべて食物を得る権利があるのと同様に、動物にもその権利があるからである。牛とロバとを組み合わせて耕してはならない。

  牛とロバにはその体力と歩みに大差があるからである。また、動物の休息についても規定が設けられている。

あなたは、6日間仕事をし、7日目には休まなければならない。これはあなたの牛、およびロバが休みを得、また、あなたのはしための子、及び寄留の他国人を休ませるためである。(申命記2542210、出エジプト記2312

 

 

Tithing
was voluntary.

Jesus10WidowsMite.jpg (2813 bytes)
The Widow's Mite

 

特権階級ではない祭司職

ある人々は、祭司職自体が利己的な制度であると主張するかもしれない。レビ族は、彼等の同胞である他の種族の各個人の年収の十分の一の納税によって生活を支えられていたからである。

  しかし、これは不信の者に共通する不公平な判断であって、その制度における神の御旨の素晴らしさを誤解しているか、または知らないが故に述べられる言葉である。

  事実、それが制定された当時の状況や、その支払いの方法を知らずに、ただ慣例として取り入れ、そして同じような制度を持つと主張している近代の祭司職によってさえ、しばしば誤解されている。

 

The Priests had
no inheritance
in the land.

 

TABPriestB.gif (20904 bytes)
The High Priest

 

     それは絶対的公平の上に立てられた制度であった。イスラエルがカナンの地を所有するようになった時、確かに、レビ族は他の種族と等しく土地の所有権を持っていた。にもかかわらず、人々の宗教上の目的を果たすため、様々な間に散らばって生活していたレビ族は、神の命令によって自分達の住む所以外には土地を所有しなかった。

  土地が分割される前に、この禁止命令は9回も繰り返されたのである。その土地にかわるものとして何かが与えられねばならなかった。それが十分の一の税であった。だから十分の一の税は、合理的かつ、正当なものである。そればかりか、今、見てきたように十分の一の税は他の種族がレビ族に対して果たすべき義務であったとは言え、税として強制されることなく、自由意志による献金として払われるべきものであった。

  これを払わねば罰せられるといいようなものではなく、完全に個人の良心に基づいて払われるものであった。これに関して人々に与えられた警告は、単に次のようなものであったにすぎない。

慎んであなたが世に生きながらえている間、レビ人を捨てないようにしなければならない。(申命記1219

町の内にあるレビ人を捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく嗣業を持たない者だからである。(申命記1427

No provision
was made
for honoring
the priests.

 

Protection for widows
and orphans

Wage protection...

Honor for
the elderly

 

wpe682.jpg (2669 bytes)

"Thou shalt rise up
before the
hoary head
and honor the face
of the old man,
and fear thy God:
I am the LORD."
Leviticus 19:32

彼ら自身の所有権を放棄し、その生活を同胞に頼らねばならないような規定をしたこのような制度が、自分の利益のみを求める野心的な祭司によって作られたと考えることが合理的であろうか?むしろ理性は、私達にその逆を教えてはいないだろうか?

  この律法の著者は神ご自身であると考えなければ、解釈できないような点が多くあるが、その一つは祭司を尊ぶことに関し、いかなる特別な配慮もなされていないという事実である。

  ペテン師が自分自身への尊敬を集めるために、彼らを虐待する者に対して厳罰を設けるようなところは一つとして見あたらない。それどころか祭司に対しては名誉も、暴力や侮辱からの保護も与えられてはいない。

  それにもかかわらず、階級間の差別も個人の差別待遇も規定されていない。この律法のみが彼らの唯一の保護者なのである。もっと驚くべきことには、召し使い、外国人、老人達に対しては特別な規定がもうけられている。例えば

あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。あたながたは、すべての寡婦、または孤児を悩ましてはならない。

  もしあなたがたが彼らを悩まして、彼らが私に向って叫ぶならば、私は必ずその叫びを聞くであろう。そして、私の怒りは燃えたち、つるぎを持ってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。(出エジプト222124239、レビ記1933

貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またはあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。賃金はその日のうちに払い、それを日の入るまで延ばしてはならない。彼は貧しい者で、その心をこれにかけているからである。そうしなければ、彼はあなたを主に訴えて、あなたは罪を得るであろう。(レビ記1913、申命記241415、出エジプト212627

あなたは、白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。(レビ1932、レビ1914も参照せよ)

 

Scientific sanitation

Sanitation3.jpg (16103 bytes)

  これらすべての規定にもかかわらず、祭司やレビ族や十分の一税に関しては、なにも特別な規定がなされていない。貧しく、しかも長い間、圧制の下にあった人々にとって最も必要な律法の衛生上の規定は、食べてよい清い動物、または食べてはいけない不潔な動物に関する規定と制限と共に驚嘆に価するものがある。

  そして、これは、他の規定と共に、もし紙面が許すなら私達の興味深い研究資料となるであろう。この問題に関する最新の医科学的結論より進歩しているとまではいかなくとも決して遅れてはいない程である。また、モーゼの律法は、後の考察に待たねばならない模型的性格を持っている。

  しかし、今までチラッと見てきただけでも、キリスト教の全制度の骨組みを成し、聖書の残りの部分に詳しく述べられているこの律法が、本当に知恵と正義を驚くまで十分に表わす圧倒的な証拠を備えていることが分る。その歴史的年代の古さを考慮する時には、特にその感を深くせずにはいられない。

All this is evidence
of a wise, just
and loving God.

LawA.jpg (2937 bytes)

     理性の光に照らして見れば、すべての人は、このモーゼの律法が悪人や下心のある者の作ではなく、むしろ、自然界が私達に教える神の性質と全く調和するものであることを認めざるを得ない。それは神の知恵と正義と愛を示す証しである。

  更に、敬虔な高潔なモーゼは、この律法が彼自身の能力に帰するものであることを拒否して、それを神に帰している。このモーゼの性質から見て、またモーゼが偽証、偽善、虚言を人々に禁じていることから見て、モーゼ自身が自分の考えと律法とを神のものだと偽ったと考えることが出来るであろうか?また私達は、このことを記憶するべきである。

  すなわち、私達が現在調べているのは、聖書の写本であること、だから、私達が今みてきたような、その完全性は、モーゼの後継者にも同様に適用されるということ、たとえ後継者の中に悪人がいて、人々のではなく自分自身の利益を求めたとしても、彼らが聖書の内容を変更したりしなかったことは、今日までその純潔を保っている聖なる著者自体が明らかに示している。

 

"Take, my brethren, the prophets, who have spoken in the name of the Lord, for an example of suffering affliction and of patience." James 5:10

Elijah1.jpg (12801 bytes)

Elijah Reproves King Ahab

 聖書の預言者

さて、今度は聖書の預言者の一般的性質と、彼らの証言に目を向けよう。驚くべきことには、ごく少数の例外を除いて、預言者は祭司職ではなかったこと、そして当時、彼らの預言は、一般に堕落しつつあった祭司達や盲目的崇拝者の目に好ましく写らなかったことである。

  彼らの伝えた、神から人間へのメッセージの義務は、来たるべき刑罰への警告と、彼らが罪から清められ主の恩寵の下に帰る時にくる未来の祝福とを伝えることであった。預言者たちの体験は、ほとんどの場合、望ましい生活からほど遠いもので、ののしられ、投獄され、そして最後には拷問の死につけられたのであった。

  また、ある場合には、神の預言者としての彼らの本当の性質は、彼らの死後、何年も経ってから認められたこともあった。(列王記・上1841017181910、エレミヤ386、ヘブル113238を見よ)

ReadLaw2A.jpg (4061 bytes)
The Prophets

  だから、私達は、エホバから直接霊感を受けて書いたと自称するこれらの預言的著者達のことばを語るのである。これに関連して、イスラエルに律法が与えられた時、律法は神からモーゼの手を通して人々に与えらられたのであって、そこには祭司が介在していないことを覚えておくとよい。(出エジプト191725、申命記515

  更に、律法のおきてを破る者を見たすべての人は、その罪人を戒めることを義務づけられた。こうしてすべての人は、教えと戒めの権威を持つ者とされた。しかし、今日と同様、多くの人々は仕事のことに心を奪われ、無関心、不信心になり、ごく少数の人のみが罪人を戒め、敬虔を勧めることによってこの要求を満たした。これらの教師は、旧約聖書の中で預言者 と名づけられている。

  預言者ということばは、 公に語る者 という意味である。また偶像崇拝の教師たちも、たとえば バアルの預言者 というふうに、同じように呼ばれた。(コリント1416ペテロ21、マタイ715145、ネヘミヤ67列王記1840、テトス112

Prophets2A.jpg (4455 bytes)

Exhorting the Israelites
to Repentance

Prophets5DebA.jpg (4506 bytes)

Deborah
Reproving and Warning

 

DanielA.jpg (5177 bytes)

Daniel in the Den of Lions

"For the prophecy came not
in old time
by the will of man:
but holy men of God spake as they were moved by the Holy Spirit."
2 Peter 1:21

     教えとしての一般的な意味での預言は、後に一定のクラスの人々に人気を呼び、神の戒めではなく、昔の人々の伝統を教えるパリサイ主義に堕落してしまった。その結果、真理に反するものとなり、にせ預言者、悪い教師となってしまったのである。(マタイ1529

  預言者と呼ばれた多勢の中から、エホバは特にある時にはその時に関する出来事の、またある時には未来に関する出来事のメッセージを伝える使命を負う特定の人々を選んだ。私達が今、注目を向けるのは、聖霊に動かされて語られ、書かれたこのクラスの著述なのである。それらは、適正な方法で選ばれたものだからである。

 

Prophets3A.jpg (3842 bytes)
Prophets of God

神に任命された預言者、または先覚者

 主として、これらの預言者が俗人であって、祭司の種族が受ける十分の一の税から少しの援助も得ない上に、しばしば、王やつかさびとからばかりでなく、祭司からさえも非難された事実を思う時、これらの預言者たちが神の名において偽りをでっち上げるためにつくった祭司の党派であったと断定することは理屈に合わない。事実に照らして見た道理はそのような疑いをはねつける。

 もし、聖書の多くの著者の動機をとがめる理由を見つけることができないばかりか、それらの精神が正しく真実であるのを見るならば、次に、私達は、モーゼの記録、他の預言者の記録、新約聖書の著者の記録の間に、関連性と一致点があるかどうかを調べることにしよう。

The link
between the
Old and New Testaments

     そして、もし、律法と預言者と新約聖書の記事を通して共通した思想が一慣して編み込まれていることが分れば、(それらが1500年もの期間にわたって書かれたことや、様々な著者の性質の違いを考慮した場合)また、特に、それらに共通したテーマが正しい常識で判断して、神の性質と属性に適合して、雄大で高尚なものであることが分れば、その主張するところ――彼らが神の霊感を受けて書いたということ――を認めるに足る理由であろう。

The Bible has
one plan,
one spirit,
one aim, and
one purpose

Bible34A.jpg (2713 bytes)
The Wycliffe Bible

The Bible contains more than
morals, maxims, and words of comfort.

The Bible was written
by many pens
at various times
under different circumstances.

終始一慣している聖書

これについては、私達は、一つの計画、精神、目的が全書にみなぎっていることを知っている。その冒頭のページには、創造と人間の堕落の記録があり、その終りのページは、人間の堕落からの回復の記録である。

  その間のページには、この目的の遂行のための神の計画の連綿たる足どりが見られる。最初の3章と最後の3章の調和と対比は目ざましい。

一方には、最初の創造が述べられ、他方には、新しくされた、または罪と罰が取り除かれ回復した創造が述べられている。

一方には、サタンと悪がこの世を欺き、滅ぼすために入ってきたことが示され、他方には、その仕事は果たされず、滅ぼされたものが回復され、悪は絶たれ、サタンが滅ぼされることが示されている。

一方にはアダムによって失われた支配権が示され、他方にはキリストによってそれが回復され、永遠に建てられ、神の御心が天に行われるごとく、この地上に行われることが示されている。

一方には罪とその堕落、恥、死の原因が見られ、他方には栄光と誉れと命が与えられる義の報酬が見られる。

     聖書は、多くのページによって、異なった時代に違った状況の下に書かれたにもかかわらず。単なる道徳的戒め、賢明な処世術、慰めのことばの寄せ集めではない。それ以上のものである。

  聖書は、この世の現在の悪の原因についての合理的、哲学的、調和的な記述であると共に、その唯一の神の知恵に見られる治療法と、始まる以前から計画の終りを見通した最終的結末と、定められた時に知られる大いなる貴重な約束によって支えられ強められる神の民の歩みの記録である。

 

There is the redemption theme...

Jesus9Stripesa.jpg (3594 bytes)

"...with his stripes we are healed."
Isaiah 53:5

 

Jesus24APilate.jpg (4482 bytes)
Before Pilate

Jesus24Nailed.jpg (6421 bytes)

Jesus48Resurrection.jpg (4332 bytes)
Jesus' Resurrection

     人間は初めの完全な状態で一人の代表者において試され、失敗し、その結果、現在の不完全、病、死がもたらされた。しかし、神は人を見捨てず、女から生まれた救い主を通して人類を回復するという創成記の教え(創成記315)は、最後まで貫かれ詳しく述べられている。

  罪の犠牲としての救い主の死と、私達の罪のおおいとしての主の義の必要性は、アダムとイブに与えられた皮の着物、アベルのささげ物が受け入れられたこと、祭壇上のイサク、族長が神に近づく手段であった様々な犠牲の死、律法の下に定められユダヤ時代を通して続けられた犠牲の死において指し示されている。

  ペテロ112)罪を動物の上にではなく人間の上に置くことを語り、その預言的洞察力によって、人類を救う人の姿を見るのである。

ほうり場にひかれて行く子羊のような

みずから懲らしめを受けて我々に平安を与えた。

我々はその打たれた傷によっていやされた。

彼らは、主を あなどられて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた

と描写し、主はわれわれすべての者の不義を彼の上におかれた と語っている。(イザヤ5336

  彼らはまた、この救い主がどこで生まれ(ミカ52)いつ死ぬのかを語り、私達に、それは彼自身のためではないことを確証している。(ダニエル926)彼らはまた、主に関する様々な奇妙な事柄について述べている――すなわち、彼は正しい人で、偽りや暴虐を行わなかった。  538911)彼は銀30枚で売り渡されたこと。(ゼカリヤ1112)その死は、とがある者と共に数えられたこと。(イザヤ5312)その骨の一つも折られることはないこと。(詩篇3420、ヨハネ19361610、使徒行伝231)などである。

The ransom price...

Jesus6A.jpg (5209 bytes)

     新約聖書の著者達は、はっきり、力強く、しかも簡単明りょうに、これらすべてのナザレのイエスに関する預言の成就を記録している。また、合理的な論法によって、すでに律法と預言者において預言されたように、イエスが提供したようなあがないの代価が、この世の罪が消されるためには必要であったことを示している。(イザヤ118

   彼らは、聞く人の偏見や感情に訴えることをせず、啓発された理性にのみ訴えながら、その計画の全過程を最も合理的な説得力のある方法で描いている。(ロマ51719、以後12章までを参照せよ)

 

The blessing
for ALL...

Scales2B.jpg (14516 bytes)

     モーゼは、律法の中で、犠牲を強調しただけではなく、この偉大な救い主のもとに罪が消され、人々が祝福されることを強調した。彼は、 モーゼのような しかしその力と権威はモーゼ自身のそれをはるかにしのぐ救い主であると語った。(申命記181519

  その約束の救い主は、イスラエルを祝福するだけではなく、イスラエルを通して 地上のすべての家族 を祝福するのである。(創成記12318182218264

  そしてユダヤ人の偏見に逆って、預言者達は、その同じ強調をもって、メシヤが 異邦人を照らす光 となるであろうこと(イザヤ496、ルカ232)、異邦人は 地の果てから 彼らのところに来ること(エレミヤ1619)、彼の名は 異邦人のうちにあがめられる こと(マラキ111)、主の栄光はあらわれ、ひとは皆ともにこれを見ること(イザヤ405、イザヤ4217)を語った。

 

The selection of
a "little flock"...
Jesus17SheepA.jpg (4119 bytes)

特に啓蒙された新約聖書の著者たち

  新約聖書の著者達は、キリストの犠牲に関する預言の成就を、彼らが知ることを可能にしたものは神の定めであると主張する。彼らはユダヤ人としてすべての祝福は自分たちの民族に限られていると考える偏見を持っていたにもかかわらず、彼らの民が祝福される一方には、この地上のすべての家族もまた、彼らを通して祝福されるのだということを知ることが出来たのである。(使徒行伝11118

  彼らはまたイスラエルの祝福よりも、この世の祝福よりも先に、ユダヤ人と異邦人の両方から 小さき群 の選択がなされることを知ったのである。 小さき群 とは、試され、偉大な救い主の栄光と誉れの共同相続人として、またイスラエルとすべての国民の祝福の栄誉を主と分かちあうにふさわしい者であることを認められる人々である。(ロマ817

  これらの著者達は、この見解が律法と預言に書かれたことと、一致することを指摘している。そして彼らが提示する計画の広さと深遠さは

 すべての人におとずれる大きな喜びのおとずれ 

と称される最も高尚な概念でさえ十分に表わすことが出来ない程のものである。

The Bible tells of Messiah and his kingdom...

 

 

 

And how death and sorrow will be wiped away

     イスラエルとこの世の支配者としてのメシヤの思想は、モーゼの書に暗示されているばかりでなく、それは、すべての預言者のテーマである。その王国の思想は、使徒の教えの中でも第一のものである、イエスは 御国を来たらせ給え と祈るように教え、また真理のために苦しみ、ふさわしい者として自らを証明する人々にその御国での分け前を約束している。

この来たるべき栄光に満ちた王国の希望は、すべての忠実な人々に迫害に耐え、非難、剥奪、損失を死に至るまでこうむる勇気を与えた。そして、新約聖書の終りの雄大な寓話の中では、王国で王となり祭司となる ほふられた子羊 にふさわしい者、 勝利者 ふさわしい者、また、その王国を受け継ぐにふさわしい者として克服しなければならない試練や生涯がことごとく忠実に描写されている。(黙示録512

  そして、次にサタンが縛られ、アダム的死と悲しみがぬぐい去られ、地上のすべての国民が天的王国――新しいエルサレム――の光の中を歩む時、千年間の支配のもとに世界にもたらされる祝福が象徴的描写で紹介されている。

The Bible gives the hope of the resurrection...

ISTombIn.jpg (3504 bytes)
Interior of
Jesus' Tomb

 

 

Jesus7EstellePlanet.jpg (14878 bytes)
"...in Christ shall all be made alive"

     聖書は、始めから終りまで、聖書以外の所では見られず、すべての異端宗教の理論に反する一つの教理――死者の未来の命は死人の復活を通して来るという教理――を提示している。

  霊感を受けたすべての著者が、救い主にある彼らの確信を表現している。ある者は、その朝神が墓から彼らを呼び出し、彼らが出て来る時、悪人はもはや地上に支配をふるわないと語っている。

   その朝、正しい者が彼らを支配するからである。 (詩篇4914)死人の復活は預言者によって教えられている。そして新約聖書の著者たちは彼らの未来の命と祝福の希望のすべてをその基礎の上に置いている。パウロは、それをこのように表現している。

 もし死人の復活がないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。

 …そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは滅んでしまったのである。しかし、事実キリストは眠っている昔の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。 コリント151322

The Old Testament is confirmed by the
New Testament writers, written 2,000 years apart, as well as by other Old Testament writers.

 

Bible35A.jpg (2780 bytes)
Dead Sea Scrolls

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Jesus16HealingB.jpg (24224 bytes)
Jesus Healing

 

     ちょうど時計のように、その多くの歯車は最初、不必要であるかのように見える。しかし、その最も遅く動く歯車も欠かすことはできない。聖書も同様に、多くの部分から成り、多くの人々のペンによって準備されたが、その全体は完成した調和のとれた一つのものである。

  一部分として不必要なところはない。ある部分は他の部分よりも活動的で、目立つかも知れない。しかし、すべてが必要であり、役に立つのである。

 進歩的思想家 とか 偉大なる神学者 とか呼ばれる人々の間では、旧約聖書の 奇蹟 の多くを、 老いの操りごと として軽視し、または無視(もし否定しなければであるが)することが通俗化しつつある。

  それらの中には、ヨナと大魚の話、ノアと箱船の話、イブとヘビの話、ヨシュアが太陽を止めた話、ハラムがロバと会話した話などがある。

  これらの賢者たちは、聖書がその様々な部分を網の目のように編み込まれて一つにされたものであり、聖書からそれを引き抜いたり疑ったりすることは聖書全体を破壊することであり、疑うことであるという事実を見のがしているようである。なぜなら、もし最初の記事が偽りであるならば、それを繰り返して語った人々は、偽り者か、だまされたのかのどちらかであって、いずれの場合にも、私達が彼らの証言を神の霊感を受けたものとして受け入れることは不可能だからである。

  517)また、イブがヘビにだまされたこともパウロによって証言されている。(コリント1113テモテ214

  129202の主のことばも参照してほしい、主の力のしるしとして、アモリ人を打ち負かす時に太陽が止まった話は、明らかに未来の 主の日 に示されるべき主の手(ヨシュアによって象徴された)にある力の象徴である。これは3人の預言者によって証明されている。(イザヤ2821、ハバクク21313143211、ゼカリヤ14167

  11節)と、ペテロ(ペテロ216)によって確証されている。ヨナと大魚の話、ノアの洪水の話は、偉大なる教師、イエスが確証している。(マタイ1240243839、ルカ1726ペテロ320も見よ)

  事実、これらの奇蹟は、イエスやその弟子たちが行った奇蹟、水をぶどう酒に変えたり、病気を癒したり――中でも最も素晴らしい奇蹟は死者を目覚めさせたことだが――に優るものではない。

  私達の経験しないこれらの奇蹟は、毎日私達のまわりで意識されずに起っていることと類似している。動物や植物など生きている生物の再生は私達の力の及ばないこと――つまり奇蹟――であると同時に私達の理解を越えたものである。

  私達は、生命の根源が働いているのを見ることは出来るが、それを理解することも作ることも出来ない。同じような条件、空気、水、土壌の所に二つの種を並べて植えるとそれらは成長する。

To eliminate the miracles
from the Bible
would invalidate
the testimony of its principal writers.

Noah2A.jpg (3652 bytes)
NOAH
Genesis 6 and 7
-
Matthew. 24:38

Jonah.jpg (3252 bytes)
JONAH
Jonah 1:17 -
Matthew 12:40

 

AdamEveA.jpg (4500 bytes)
ADAM AND EVE
Genesis 2:7,19
-
1 Corinthians 15:45

JoshuaA.jpg (5235 bytes)
JOSHUA
Joshua 10:12 -
Isaiah 28:21, Habakkuk 3:11,
Zechariah 14:1,6,7

 

BalaamA.jpg (5093 bytes)
BALAAM
Numbers 22 and 31:16 -
2 Peter 2:15,16 & Jude 11

PK2SeedsA.jpg (5982 bytes)
Seeds grow –
we cannot tell how...
nor can the wisest philosopher
explain the miracle.

  しかし、いかなる賢い哲学者であろうとも、どうしてこの二つの種が全く反対の性質を持つ生物を発達させるのかを説明することはできない。

  一つはからみつき、他はまっすぐに立つ。条件が同じであるにもかかわらず、形、花、色、すべてが異なる。このような奇蹟が私達のまわりで、あたりまえのこととして起る。私達は、子供の頃の驚異を忘れたかのように、それらを記憶にとどめない。

  そかし、それらは、私達自身の力を越え、また私達の理性の限界を越えた力を現わしている。聖書に記された奇蹟のうちの幾つかは、特別な目的のために、偉大な創造者の能力と無限の力がすべての障害を克服して神の意志を遂行することの意図された実例として現わされている。

  そして、その能力は、死人の復活、悪の滅亡、最終的な永遠の義の支配の約束さえ可能にするのである。

     ここで立証を終りにする。すべての段階は理性によって試みられた。私達は、最高の知恵を持つ創造者、神が存在し、その神には知恵と義と力が完全な調和を保って存在することを知った。また私達は、それらに興味と理解を持つ被造物に神の計画が啓示されることを期待することが理に叶っていることを知った。

  また、聖書が尊重するに値いする啓示であると主張していることを知った。私達はその著者たちを調べ、彼らが教えたことの中に示されている彼らの目的を調べて驚き、そしてそのような純粋な動機と結びついたそのような知恵が、悪がしこい人間の利己的結末を求める、ずるい策略であるはずがないという結論に達した。

Hourglass2A.jpg (2968 bytes)   そのような正しい、情け深い精神と律法は人間のものであるはずがなく、神のものにちがいないことを理性に基づいて力強く説得してきたし、また、それらが悪い祭司の仕業であるはずがないことを主張してきた。私達は、イエスと、そのあがないの犠牲と、その復活と、その結果である来たるべき栄光の王国で、すべての人が祝福を受けることに関する証言の一致を見てきた。

  また、理性は、それほど雄大な包括的なすべてを越えた、しかも理性的推測の上に建てられた計画は、私達の探し求める神の計画に違いないことを私達に説得してきた。それは単なる人間の考えではあり得ない。なぜなら、それが現われる時、人が信じるには全く雄大すぎるからである。

The Bible’s
own testimony convinces us that
God is its Author

 

Bible6.jpg (8473 bytes)

  コロンブスがオリノコ河を発見した時、ある人が 島だ! と言った。彼は答えた 島からこんなに大きな河が流れ出るはずがない。その力強い奔流は大陸の水の流出にちがいない。 

  だから、聖書の証言の深さ、力、知恵と広さは、人間ではなく、全能の神がその計画と啓示の著者であることを私達に悟らせる。私達は、源を神から発しているという聖書の主張の表面を一瞥したにすぎない。そしてそれが理性に叶ったものであることを発見した。

  あとに続く章では、神の計画の様々な部分を展開し、すべての正しい心の持ち主に、聖書が神の霊感を受けた黙示であり、その展開する計画の長さ、広さ、高さ、深さが神の性質を輝かしく反映し、今までぼんやりとしか理解されなかったが、今や千年の日の夜明けの光の中ではっきりと見られるという豊かな証拠を提示するものであると信ずる。

 

Gleaners.jpg (23530 bytes)

 

To Return to Home Page click on Chart HomeSymbol.jpg (6039 bytes)
Send E-Mail