Noah Building
the Ark
Noah, Preacher of Righteousness
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宗教改革当時の信仰深い人々は、その時、輝いていた光の中を歩んでいたものの、以来、プロテスタントの進歩はなく、その光を歩むかわりに、自分達の好みに合う指導者につくことを望む以上には多くを望まなかった。
彼らは、持っている少しの真理さえも、母教会から継承する多くの誤りのために失い、進歩を阻害された。ほとんどのキリスト者は、昔、定められた信條に迷信的尊敬を払い、宗教改革者によって明らかにされた以上に神の計画を知ることは出来ないと教えている。
この誤解によって生じた弊害は大きかった。その時、誤解の砂礫の中から重要な真理のうちわずかなものしか回復しなかったという事はさておき、真理には常に自らを示そうとする特別な性質があるにもかかわらず、当時のキリスト者たちは、彼らの信条の壁に遮られていたのである。
例えば、ノアの時代には、洪水が来るということが、光の中を歩くすべての人々に信ずべきこととして要求されていたが、これはアダムやその他の人々には全く知られなかったことである。今日、洪水のことを教えることは真理ではない。
今日には、現時点で輝きを続けている真理があり、もし私達が、ともしびを手に光の中を歩くならそれを見るのである。しかし、数百年前にすでに現われた光だけをもって、これを現在の光と考えるならば、その程度に応じて私達は暗黒の中にとどまるのである。
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神の言葉の倉庫
神の言葉は、光の道を歩む飢えた巡礼者にとって、食料の大倉庫である。そこには、幼児のためのミルクがあり、成人のための肉があり、(Ⅰペテロ2:2、ヘブル5:14)そればかりではなく、異った時と場合に相応した食物がある。
イエスは、忠実な家令は信仰の家族のために時に応じて新しいものと古いものとをその倉から取り出すべきであると言っている。(ルカ12:24、マタイ13:52)教派的信条の倉庫からこのようなものを取り出すことは不可能であろう。 |
Tyndale Bible
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古いものや、良きものを取り出すことは出来ても、新しいものを取り出すことは出来ない。種々の宗派の信條の中に含まれている真理は、余りにも隠され、誤りと混ざり合わさっているために、その美と真の価値を識別することが出来ない程である。種々の信条は断えず矛盾し衝突し合っている。
そして、その各々が聖書を根拠としていると主張しているので、思想の混乱と明らかに見える矛盾は、あたかも神の言葉から来るかのように思われている。“聖書は、どんな音色もかなでることができる古いバイオリンである”という諺はここから生まれたのである。
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"...be
ready always to give an answer to every man that asketh you
a reason of the hope that is in you with meekness
and fear."
I Peter 3:15
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この諺は、なんとよく今日の私達の不信仰を表わしているのではないか。その不信仰は、神の言葉と性質が人間の伝統によって曲解されることと、知性が発達し、もはや盲目的、迷信的な尊敬によって同胞の意見の前にひざまずかず、むしろ私達の中にある希望について理由を要求するようになったこととによって生ずるのである。
神の言葉を忠実に学ぼうとする者は、常に自分の信仰に根拠を与えることが出来なければならない。神の言葉だけが、人に知恵を与え、教理、教育などのために有益となるものである。“それによって、神の人があらゆる良いわざに対して十分な準備ができて完全にととのえられたものになるためである。”(Ⅰペテロ3:15、Ⅱテモテ3:15~17)
この倉庫だけが古いもの新しいもの両方を無尽蔵に供給し、時に応じた食物を家族に与えることが出来るもでのある。“正しい者の道は夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。”という聖句を信じる人はだれひとりとしてその完全な日がルーテルの時代に到来したと考えはしないであろう。それならば、私達は“夜が明け、明星がのぼってあなた方の心を照らすまで”ともしびをかかげてそれに目をとめていなければならない。(Ⅱペテロ1:19) |
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だから、私達は光の中を歩まねばならない。そして前進を続けなければならない。さもなくば、止まることのない光は、私達を通り越して私達は暗闇に取り残されてしまうのである。
多くの人々にとっての困難は、彼らが座りこんでしまい、光の道を歩み続けないことである。コンコーダンスを手に取り、“座る”と“立つ”という言葉の出ている聖句を調べ、次に“歩く”と“走る”という言葉の出ている聖句とそれとを比較してみると、そこに大きな差があることがわかるであろう。
そこには、“暗きに座する人”“あざける者の座にすわり罪の道に立つ人”に対して、“光の道を歩み”“賞与に向って走る”と出ている。(イザヤ42:7、詩篇1:1、ヘブル12:1) |
"All
scripture
is given by inspiration of God,
and is profitable
for doctrine,
for reproof,
for correction,
for instruction
in righteousness."
II Timothy 3:16
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知識の完成は過去ではなく未来の事実にある。そして、その未来はもうそこまで来ている。もしこの事実の認識がなければ、私達は神の計画の新しい展開を知ることも期待することもできない。
確かに私達は現在、未来に関する知識を求めて預言者や使徒の言葉に頼ることはあるが、それは預言者、使徒たちが私達よりももっと深く神の計画と目的を知っていたからではなく、神がその計画に関する真理を私達及び全教会に伝達するために彼らを代弁者として用いたからである。
この事実は、使徒たちによって十分に証明されている。パウロは、神があらかじめ定めてはいたが、時が満ちるまで明らかにされなかった計画を、特にキリスト教時代の信徒たちが、“高い召し”に対し、心の目を開くために、その御旨の奥義をキリスト教会に明らかにされたと語っている。(エペソ1:9、10、17、18、 3:4~6)これは、預言者たちも、御使いたちも、その預言の意味を知っていなかったことをはっきりと示している。
ペテロは、彼らがその意味を尋ね求めた時、神は、その預言の真理は彼らのためではなく、キリスト教時代の私達のものであることを示されたと言っている。また、教会が更に深い神の計画を知るために、尚一層恵みを待ち望むようにと勧めている。((Ⅰペテロ1:10~13) |
Apostle Peter
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イエスは教会をすべての真理に導くと約束されたが、その展開は徐々になされることが明らかである。使徒の時代には、教会は法王制度の下に発達した多くの誤りから免れていたとは言え、初代教会が今日、私達が知るように深く明瞭に神の計画を知っていたとは想像できない。
しかし、預言者の言葉と同様、使徒の著述は神の霊に導かれて書かれてはいるが、異った程度に神の計画への洞察を持っていたことも確かである。
その知識の差を示すためには、パウロを除いてペテロをはじめとする他の使徒達が、福音が異邦人に述べ伝えられ始めた時に、いかに動揺したかを思い出すとよい。(使徒行伝10:28、11:1~3、ガラテヤ2:11~14)預言者の言葉と神の過去の御業と直截に与えられた啓示によるパウロの確信と、ペテロの薄信との対比には驚くべき差がある。 |
Apostle Paul
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明らかに、パウロは他の使徒達より豊富に啓示を与えられていた。パウロは、これらの啓示を教会に知らせることも、また他の使徒達に明確に十分伝えることも許されなかったが、(Ⅱコリント12:4、ガラテヤ2:2)私達はパウロに与えられた幻や啓示の全教会に対する価値を知ることができる。
なぜなら、パウロは彼が見たものを語ることも、彼が知っている“来たるべき時代”に関する神の奥義を書きあらわすことも許されなかったにもかかわらず、彼が見たものは彼の言葉に力と意味の深さと明暗とを与え、私達がその後におこった事実、預言の成就、霊の導きによって、初代教会より更に十分に理解することが出来るようになったからである。 |
Apostle John |
今までに述べたことに確証を与えるものとして、AD96年頃書かれた聖書の最後の書、黙示録を思いおこす。その最初の言葉は、その書物が以前には理解されなかった事柄の特別な黙示であると伝えている。
このことから、神の計画が少くともこの時までには十分に啓示されていなかったことが確証されている。そればかりか、現在に至るまで、その名が暗示するように開かれていない“黙示”なのである。初代教会に関する限り、恐らく一人としてこの書物を理解した者はいなかった。
その幻影を見たヨハネ自身でさえ、自分が見たものの意味を恐らくは悟らなかったであろう。彼は、預言者であると同時に使徒であった。使徒としてはその時に応じた食べ物を理解し、そして教え、また預言者としては未来に必要な食べ物を供給する事柄を言い表わした。 |
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キリスト教時代の間に、一部の聖徒はこの象徴の書を調べ、教会の未来を知ろうとしたが、その教えの一部分であろうと理解した人々は、疑いもなくさいわいな人々であった。
(黙示録1:3)そのような人々に対して、この書物は開かれ続けた。そして宗教改革の時代には、ルーテルに法王制度というものが果たして使徒のとなえた“反キリスト”かどうかを決定する重要な助けとなった。今日、私達が見る法王制度の歴史は、その預言の一部を大きく満たすものである。
このようにして、神はその真理を徐々に開き、その恵みの豊かさを現わし、そして教会史上のいかなる時代にも増して今日その光は輝いている。 |