世々にわたる神の計画

 

第 11 章

 

 三つの道――広い道、狭い道、大路 

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三つの道――広い道、狭い道、大路

――破滅に至る広い道

――命に至る狭い道

――命とは何か?

――神性

――神聖と人性との関係

――狭い道の終点で得られる報酬

――福音時代に限られ ている高い召し

――狭い道の困難と危険

――聖なる大路 

 

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Few find
the "narrow way" to life today.

滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいっていく者が多い、命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ71314

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The "highway of holiness" will be available for all.

そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者がそこを通ることはない。しかし、その道は彼らのためにある。旅人は愚かであっても、そこで過ちを犯すことはない。そこにはししはおらず、飢えた獣もその道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただあがなわれた者のみ、そこを歩む。(イザヤ3589

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The downward path is becoming
more glazed
and slippery
with sin.
  広い道狭い道大路はこのように聖書の中で示されている。

滅びにいたる広い道

この道が、このように名づけられているのは、堕落した人類にとって、最も歩きやすい道だからである。6000年前、滅亡を宣告された罪人、アダム(とアダムによって代表される人類)は、この道を歩き始め、930年の後、その終点――破滅――に至ったのである。

 時は過ぎ、下降する道はますます滑りやすくなり、人類はますますその速度を増して滅亡へ向かってきた。その道は、日毎に抵抗力を失い、今では人間の寿命は約35年になってしまった。今、人間は、最初の人間より900年も速く、その道の終点――滅亡――に達するのである。

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For 6,000 years,
sin and death
have reigned relentlessly.

     6000年の間、自身はその広い下降する道を確実に歩み続けてきた。比較的少数の者のみが、その進路を変え、引き返そうと努力してきた。そして、そうしようとした一部の人々の努力は賞賛に価し、全く効果がなかったというわけではなかったが、事実、その歩みのすべてをさかのぼり、最初の完全性に到達することは不可能であった。

   6000年の間、罪と死は容赦なく人類を支配し、滅亡へのこの広い道に人々を駆り立ててきた。そこから逃れる道は、福音時代になるまで明らかに示されなかったのである。以前の時代には、希望の光は模型や影においておぼろげに見られ、少数の人々はこれを大いに歓迎し、行動したとは言っても、命と不滅とは私達の主であり、救い主であるイエス・キリストが現われるまで、又使徒達によって救いと罪の許しとその結果としての滅亡からの復活の良きおとずれが宣告されるまでは、明るみに出されなかった。(テモテ110

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Jesus called
the new way
the "narrow way
to life."

     イエスと使徒の教えは、すべての人類のための救い主の功績と犠牲に基づく命、すなわち命への回復または復古を明らかにしたのである。そして彼らはこれを旧約聖書の中の多くの模型の意味であるとして示している。彼らはまた、福音教会の高い召しの賞与である不滅を明らかにしている。

滅びに至る広い道から逃れる道は、福音によって明らかにされたとは言っても、人類の大多数は罪に深まり、悪によって盲目にされているので、その良きおとずれを心に留めない。

   今、命への約束、すなわち人間存在の回復を、キリストを通して受け入れる人々には、開かれた新しい道、すなわちそれによって献身した信者には人性を越えた高い性質――霊性へと変えられることが示されている。この新しい私達のために開いてくださった――忠実なる祭司の国――を主は次のように呼んだのである。(ヘブル1020

Because of
its narrowness,
many prefer
to avoid it.

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命に至る狭い道

多くの人々が滅びにいたる広い道に留まることを好むのは、この道が非常に狭いからだと私達の主は教えている。命にいたる門は狭く、その道は細い、そしてそれを見いだす者が少ない。(マタイ714

   この道の危険と困難を考慮する前に、その道の終点である命に注目してみよう。すでに見てきたように、命は、あるいは人間より高い、あるいは人間より低い様々な階級で所有されるものである。

   命という言葉は広い包括的な言葉だが、ここで主は、神性――不滅――にふさわしい命、私達が目標として走るべき最も高いかたちの命のことを言っているのである。命とは何か?私達は自分自身の中に命を認めるのみならず、下等動物の中にも植物の中にさえ、その命が働いているのを見る。

What is life?      又、私達は、もっと高いかたちの命、天使や神の存在のことを教えられた。こんなに包括的なことばをどのように定義したら良いのだろうか?
Jehovah is
the great fountain of all life.
     私達は、すべてのものの中にある命の源の秘密を発見することは出来ないかも知れないが、神、エホバの存在は、すべての命の偉大な泉であり、そこからこれらすべての命は供給されると推測してもよいと信ずる。

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The divine nature is life independent, unlimited, exhaustless.

    すべての生き物は、その命を神から得、神に依存している。すべての命は神の中にであれ、被造物の中にであれ同じである。それは力を与える根源であって、物体ではない。それは本来神に属するものであるが、神が定めた原因から生じて、被造物の中に存在する。

   だから神は命の原因であり、命の創造者、または泉である。ゆえに被造物は、いかなる意味においても創造者の本質または性質の一部、または子ではなく命を吹き込まれた神の御手の業なのである。

神性にのみ、独立した限りない無尽蔵の、絶えることのない環境によって創られることも、左右されることもない命があるという事実を知ることによって、エホバは、被造物の維持のために定めた物理的法則や供給物を超越したものでなければならないことを私達は理解する。神にのみ属し、不滅(immortality)という言葉で説明されるものは、この性質なのである。

  前章で示したように、不滅とは不死性、従って病気や痛みのないことを意味する。事実、不滅は神聖と同義語に使うことが出来る。ちょうど地球が太陽から光や命の源を受けるように、神の不滅の泉から、すべての命と祝福とすべての良い完全な賜物に始まるのである。

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The sun is
the fountain of light
to the earth.
     太陽は地球への偉大なる光りの源であり、すべての物を照らし、照らす部室の性質に従って、様々な色や光の明暗を生み出す。同じ太陽の光がダイヤモンド、レンガ、異なった種類のガラスを照らすと、著しく異なった効果を生ずる。光は同じであっても、それが照らす物質が光を受け取ったり、伝達したりする能力の違いによって差をつける。

   命もこれと同様である。すべての命は、一つの無尽蔵の泉から流れ出る。カキ(貝)は命を持つが、ちょうどレンガが太陽の光をあまり反射することが出来ないように、カキは命の力を大いに使うことができないように作られている。

   獣や魚や鳥におけるもっと高い命の各々も同様である。陽光の下にある様々な種類のガラスと同様に、これらの異なった被造物は、命がその有機体を活かす時、各々が異なった有機的能力を発揮するのである。

Man does not possess
inherent life.

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     みがかれたダイヤモンドは、非常に光をよく採り入れ、あたかもそれ自体の中に光を持つ小さな太陽であるかのように見える。神の創造の傑作品であり、ただ少し天使より低く造られた人間も同様である。

   人間は神が与えた手段を使用することによって、命を受け取りそれを保持し、決して衰えることがない程に高尚なものとして造られたのである。アダムは、その堕落以前には、いかなる地上の被造物よりも崇高であった。それは人間に与えられた命の根源が異なるからではなく、より崇高な有機体を与えられたからである。

The beginning
of human life –

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     しかし、私達が記憶しておきたいことは、ダイヤモンドも太陽に照らさなければ光を反射することが出来ないように、人間も命の供給が続けられなければ、命を保持しそれを楽しむことは出来ないということである。

   人間は固有の命を持たない。ダイヤモンドが光の源ではないように、人間も命の源ではない。私達が私達自身の中に無尽蔵の命を持たない。又は不死性ではない。強力な証拠の一つは、罪がこの世に入って以来、すべての人類に死が及んだということである。

   神は、エデンの中で人間は命を支える木に近づく手段を持ち、アダムが置かれたパラダイスには、見て美しく食べるに良いあらゆる種類の木が豊富にあるように準備された。(創世記291617)食べるに良い命の木の中には、禁じられた木があった。

   一時的に知恵の木から取って食べることを禁じられていた一方、アダムは命を完全に支える他の木から自由に取って食べることを許されていた。そして、アダムがそれらの木から離されたのは、不従順を犯した後であった。それによって死の罰が実施されたのである。(創世記322

As the diamond loses its beauty when light is withdrawn,
so man loses life without God.
     こうして、ちょうどダイヤモンドの美は、太陽の絶えざる供給に依存しているのと同じように、人間の栄光と美は、命を支えるための絶えざる供給物に依存していることがわかる。罪が人間の命への権利を奪った時、その供給は止まり、たちどころにその宝石は輝きと美を失った。

   そして遂には墓において最後の痕跡を失う。その美は、しみが食うよう消して滅ぼされる。(詩篇3911)ダイヤモンドが光を奪われることによって、その美と光を失うように、人間も神がその供給を絶つ時、命を失うのである。

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"There is
no work...
nor knowledge...
in the grave..."

人が死ねばどこにいるのか?(ヨブ1414彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない。(ヨブ1421

あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。(伝道の書910

Man is to have
his beauty restored.

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     しかし、あがないが与えられ、死の罪が救い主によって果たされたので、その翼にいやす力を備えている義の太陽がのぼる時、宝石はその美を回復し、再び創造者のかたちを完全に反射するのである。(マラキ42

   墓の中にいる者たちが出てくるのは、罪の供え物、すなわちキリストの犠牲ゆえなのである。すべての物が回復される時が来る。その時には、最初にすべてのものに回復の機会が与えられ、最終的には救い主に従うすべての人は人間の完全性へと到達するであろう。

 

 

Divine nature
was originally
the possession
of God.

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"Who only
hath immortality..."
I Timothy 6:16

     しかしながら、これがイエスが語っている、狭き道の終点で得られる報酬ではない。他の聖句から、狭き道を歩む人々に約束された報酬は神性――すなわち固有の命、神性だけが所有し得る最高の命――不死性であることが分かる。なんという希望であろう!そのような高度な栄光を望み得るだろうか?もちろん、確実にして明白に語られた招きなくしては、だれもこのような望みを抱くことは出来ない。

最初は神だけが不死性を所有していた

テモテ61416から不死性または神性は、本来神だけが所有していたものであることが分かる。その時(千年時代)には、彼(イエス)は、祝福に満ちたただひとりの力ある方――王の王、主の主、ただひとり不死を保ち、光の中に住み、だれも近づくことが出来ず、だれも見たことがなく、また見ることも出来ない方を出現させて下さるのであろう。

   その他のすべての存在者、天使、人間、獣、鳥、魚などは各々の計りに従って命を持つ器にすぎず、創造者がみこころのままに各々に備えられた品性、容量、性質において異なっているのである。

     更に私達は、最初にただひとり不死性を持っていたエホバは、御子、主イエスを同じ性質にまで高められたので、御子は今、父の本質の真の姿である(ヘブル13ことを知る。

Immortality is
now offered to
the Bride of Christ.

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父がご自分のうちに生命をお持ちになっている――自分のうちに生命を持つとは、不死性を意味し、他の源から造られたのではなく、環境に依存せず、独立した固有の生命を持つことを意味する。――と同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(ヨハネ526

   だから、主イエスの復活以後は、二つの依存者が不死性を持つのである。しかも驚くべき恵みは、福音時代の間に子羊の花嫁にも同じ不死性を与えるのである!しかし、いわゆる教会に属するすべての者、大勢の群衆のすべてがこの偉大なる賞与を受けるのではなく、それを獲得するために走る勝利者の小さき群だけがそれを受けるのである。

   彼らは、主の御跡に従い、主と同じように死にいたるまで犠牲の狭き道を歩むからである。これらの人々は復活の際に、死者の中から生まれる時、神の性質と姿を与えられるであろう。この不死性は、すなわち独立自存の神性こそ狭き門を歩む者が到達すべき命である。

The Church class
is to be raised
with spiritual bodies.
     このクラスに属する人々は、人間として墓からよみがえるのではない。なぜなら、パウロが確証しているように、肉の体でまかれても霊の体でよみがえるからである。これらすべての者は変えられるのである。

   かつて地の、すなわち人間のかたちをとっていたのと同様に、天のかたちをとるであろう。しかし、私達がどうなるのか――霊の体がどんなものであるのか――まだ明らかではない。しかし、彼が現われる時、私達は自分たちが彼に似るものとなることを知っている。ヨハネ32、コロサイ127コリント417、ヨハネ1722ペテロ510テサロニケ214

The Gospel Age
is designated exclusively
for this call.
     この性質の変化への高い召しは、福音時代に限定されているばかりではなく、これは福音時代に提供される唯一の招きである。だから、この章の始めに引用した主のことばの滅びに至る広い道を歩む者とは、現在提供されている唯一の賞与への道を歩まないすべての人々を言うのである。

   多くの人々は、未だに広い道にとどまり、世界に宣告された有罪から逃れていない。現在開かれているこの唯一の命への道は、それが非常に困難な道であるために、そこを歩もうとする者は、ごくわずかにすぎない。人類の大多数は、弱さゆえに自己満足の安易な広い道を歩むことを選ぶのである。

The path
from death to life
is a
"Narrow Way" today.

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     狭い道は、命と不滅に至るけれども、これを死の道と呼ぶことも出来る。その賞与は、人間性を死に至るまで犠牲にすることによって得られるからである。それは命に至る死の道である。アダムの罪と死の刑罰から解放されたと見なされているので、献身者は、世界一般の人々と共に与えられた人間としての当然の権利を自主的に殺す、または犠牲にするのである。

   人なるキリスト・イエスが世界のためにその命を捨てた。または犠牲にしようとしたように、これらの人々もイエスと共に犠牲を払い、イエスと共同の相続者となるのである。それは、イエスの犠牲が不十分であって、他の犠牲を必要としたからではなく、これらの人々は、イエスの花嫁となり共同の相続者となるために彼と共に苦しみ、神に仕えることを許されているからである。だから、世界は死の宣告の下にあり、アダムと共に死につつある一方、この

   小さき群は、すでに説明した信仰と犠牲とを通してキリストと共に死んでいると呼ばれるのである。彼らは、神性にあずかり、彼と共に栄光に輝く者となるために、人間としてイエスと共に犠牲を払い、死ぬ。

   なぜなら、もし私達がキリストと共に死ぬなら、彼と共に生きると信じるからである。彼と共に苦しむなら、彼と栄光を共にするであろう。(ロマ817テモテ21112

With the end
of the Gospel Age,
the Narrow Way
will close.
     千年時代の始めには、現在狭い道を歩む人々は、彼らがそれをめざして走った偉大なる賞与、不死性を得るであろう。こうして神性と力とを着ることによって、彼らはその時代の間に世界を回復し、祝福する偉大な事業への準備が出来るのである。福音時代の終りと共に、不死性への狭き道路も終わる。それは試練とテストに耐えた小さき群の選択が完成するからである。

   今は受け入れられる(ギリシャ語のdektos――受け入れられ得る)時である。すなわち、イエスの功績によって来る犠牲が、甘い香りの犠牲として、神に受け入れられる時である。アダムの罰としての死は永遠に継続されるわけではなく、千年時代の間に廃止されるのに対して、犠牲としての死は、福音時代の間にのみ受け入れられ、報酬を与えられるであろう。

"For if ye live
after the flesh,
YE SHALL DIE;
but if ye
through the Spirit
do mortify the deeds of the body, YE SHALL LIVE.

"For as many as are led by the Spirit of God,
they are the sons of God."
Romans 8:13,14

    犠牲とされるべき肉体

福音時代の聖徒が命に至る道を歩み得るのは、新しい被造物としてのみである。そして、私達が私達自身を犠牲としてささげ得るのは人間としてのみである。もし人間として私達がキリストと共に死ぬなら、新しい霊的存在として、私達は彼と共に生きるであろう。(ロマ68)私達の中にある神の心、すなわち、変えられた心は、新しい性質の発芽である。

その新しい命は、容易に息を止められてしまう。パウロはこのように確証する。真理を通して霊を与えられた時、もし私達が肉に従って生きるなら死ぬであろう。(命を失うであろう)しかし、もし私達が霊を通して体の働き(人間としての性質)を殺すなら、(新しい被造物として)生きるであろう。なぜなら、神の子は神の霊に導かれるからである。(ロマ81314)これはすべての献身者にとって最も重要な思想である。

 というのは、もし私達が人間性を犠牲とすることを神に誓い、その犠牲が神に受け入れられたならば、それを取り戻そうとすることは全く無益であるからである。人間性は、もはや神の目には死んだものとして映り、再びその人間性が回復されることは決してないからである。だから、再び肉に従って生きることによって得ることが出来るものは、新しい霊的性質を失うことによって得られる。ほんのわずかな人間の自己満足だけである。

There is
another class;
it is partially overcome
by the world,
the flesh,
or the devil.
     しかしながら、この世の誘惑、肉の欲、または悪魔の策略に幾分か負けているとは言っても、その賞与を望み、霊を与えられている多くの献身者がある。彼らは前に置かれている賞与を見失い、中道を歩こうとする者である。すなわち、この世の友は神の敵である。(ヤコブ44

   ことを忘れ、また、賞与を求めて走る者への教えは世を愛してはいけない――ただひとりの神からの誉れ以外に誉れを求めてはならない。ヨハネ215、ヨハネ544)であることを忘れ、神とこの世と両方の愛顧を保持しようとする者である。

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Purified by
the fire
of affliction.
     現在の世界を愛し、しかも完全に主を忘れ、主との契約を無視することもないこれらの人々は、苦悩の火によって罰と清めを受ける。使徒が語っているように、彼らはその肉が滅ぼされても、その霊(新しく与えられた性質)が、主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。コリント55

   そして、もしその訓練によって正されるならば、彼らは最後には霊的状態に受け入れられるであろう。

The rugged, steep,
narrow way
of the Christian

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The difficulties
of the narrow way
are a separating
principle, refining
the people of God.

     彼らは天使が持つような永遠の霊的な命を持つが、不死性という賞与を失うであろう。彼らは神の宮で神に仕え、シュロの枝をその手に持って御座の前に立つ(黙示録7917)であろう。彼らの地位は栄光あるものではあるが、花嫁として、共同の相続者として、イエスと共に不死性の冠を与えられて御座に座り、神の王となり、祭司となる勝利者の小さき群の地位に比べれば、その栄光ははるかに劣るのである。

私達のは、ごつごつした険しい狭い道である。もしその旅路の一歩一歩に力を与えなければ、私達は決してゴールに到達することは出来ない。しかし、私達の頭のことばは激励となる。勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。(ヨハネ1633コリント129

   神の相続者イエス・キリストと共同の相続者となるべく神につける民を聖別し、洗練するために選別の作用をするところにある。これらのことを考慮して、私達は信仰の良き戦いをたたかい、栄光の冠――不死性、神性――を受けようとする間にも、時機を得た助けと恵みとを受けることが出来るように、はばかることなく恵の御座に近づこうではないか。(テモテ48ペテロ54

The way
to the world’s restitution
will not
be sacrifice,
but proper enjoyment
of human rights.

聖なる大路

福音時代の霊的希望が卓越した栄光に輝き、その道はそれに比例して困難――狭く、一歩毎に辛苦と危険に妨げられる――であるため、それを見出す者は少なく、その道の終点にある偉大な賞与を獲得する者が少ないのに対して、来たるべき時代の新しい秩序は、それとは全く異なるものである。

   異なった希望が与えられているように、そこへ導く道も異なっている。不死性への道は、人間性に属する合法的、正当な希望や野心や願望を犠牲とすることが要求される道であった。しかし、人間の完全性と回復、すなわち、世界の希望への道は、罪を取り除くことのみを要求し、人間としての権利や特権を犠牲とすることを要求しないばかりか、かえってそれらを正しく享受することを要求する。それは、個人的な清めと、この世に罪が入る前にアダムが楽しんだような、神のかたちへの復帰へと導く道である。

There will be
a highway, specially prepared
for easy travel.

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Garden of Gethsemane

The Narrow Way
is a pathway
of sacrifice
and "Gethsemane"
experiences.

     実際の人間の完全性に戻る道は、非常に平らな容易な道であるので、だれでもその道に迷うことはない。その道を知らない旅人もそこで迷うことはないほどである。(イザヤ358)だれでもその隣り人に主を知りなさいとは言う必要がない程である。

   すべての人が大から小にいたるまで主を知るからである。(エレミヤ3134)少数のみが見いだす狭い道ではなく、それは大路すなわち公道と呼ばれ――狭くも険しくもなく、ごつごつでも困難でもなく、障害もない。しかし、特に容易な旅のために用意された道である。――特にそこを旅する者の便宜と安楽のために考えられた道である。

   イザヤ35章、8節と9節は、あがなわれたすべての者――すべての人類――に開かれた公道であることを示している。キリストによってあがなわれ、その貴重な血によって買い戻された機会と祝福とを認め、利用するすべての人類は、この聖なる大路を登り、人間の完全性と永遠の命への完全な回復の目的地に到達することが出来るであろう。

     これらの人々は、神の目に義と認められるのでも、聖なる完全な所に立つと見なされるものでもない。この聖なる大路を歩み始める時、彼らは努力と従順の結果として実際に完全なものとなるのである。その時、権力のうちに支配する彼らの救い主は、すべてのものを彼らに好都合なものとされるであろう。各個人は、その必要に応じて賢明な完全な新しい王国の統治によって助けられる。

   これこそあがないの当然の計画である。私達の主、人なるキリスト・イエスがすべての人のためにご自身をささげ、すべての人が真理の知識に来ることによって実際に完全となることを望まれたにもかかわらず、主はなぜすべての人類のために、すぐに善き広き大路を作らなかったのだろうか?

   なぜ彼は、障害とつまずきの石と落とし穴とわなを取り除かなかったのだろうか?なぜ人類に、狭い、ごつごつのいばらの多い、見つけるのに困難な歩きづらい道を作らず、神と罪人とが完全な調和に戻るように助けなかったのだろうか?真理の言葉を正しく識別すること、すなわち現在の狭き道が特別な賞与へ導く道であることを理解し、その道はキリストと共同の相続者、すなわちキリストの体である小さき群の試練と選びのために用意された道であって、彼らが選ばれ、頭と共に高められる時には、すべての国民を祝福するということを理解することに失敗する者は、この問題に関して非常な混乱に陥るであろう。

   神の計画を理解しないために、多くの人々が聖なる大路、すなわち命への安易な道が、現在の道であるかのように教えようとしている。現在、そのような道は存在せず、彼らは混乱し、彼らのまちがった見解に聖書を無理に調和させようとしているのである。

   間もなく開かれる大路では、罪業のみが禁じられているのである。それに対して、狭き道を旅する者は、自分を捨て、罪ではない多くの物を犠牲にし、つきまとう罪に対して絶えず戦わねばならない。これは現在の犠牲の道であるが、来たるべき時代には義の大路となるであろう。

Ignorance
and superstition
will be past.

Righteousness
will finally
receive its
due reward.

 

 

     その大路のことは興味ある象徴的な言葉で、次のように述べられている。そこにはししはおらず、飢えた獣もその道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない(イザヤ359)現在いかに多くのおそろしいししが、喜んで罪を捨て義に従おうとする人々の道にいることだろうか!

   多くの者を毎日の生活――衣服・家庭・仕事など――の中で良心の命ずるところに従うことを阻止する一般的心情を堕落させるししがいる。飲酒への誘惑のししは、それを取り除きたいと願う多くの人々の妨げとなる。禁酒制支持や禁酒運動家は、今、次の世の権威によってのみ除き得るような巨大な仕事を抱えている。

   そこには、飢えた獣もその道にのぼることはなく善良な一般の人々の犠牲の上に立つ、個人定利益をむさぼるような、いかなる巨大な組織もそこでは黙認されることはない。彼らは、わが聖なる山(王国)のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがないと主は言う。(イザヤ119

   悪への傾向を克服するための困難はあっても、現在の狭き道に比べれば、それは全く容易な道である。石(つまずきの石)は、すべて集められ、真理の旗が人々のために掲げられているであろう。(イザヤ6210)無知と迷信とは過去のものとなり、義が正当な報酬を受け、悪はその当然の報いとして罰せられる。(マラキ1518

   健全な懲罰、適切な激励、明白な教えによって、人類は帰ってきた放蕩息子のように、父アダムが堕落する前に持っていた完全性に達すべく訓練されるであろう。

 

 

 

 

Broad Road
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Highway of Holiness

Narrow Way
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   こうして、主にあがなわれた者は帰ってきて(聖なる大路を通り滅びから帰ってきて)その頭にとこしえのよろこびをいただき、歌うたいつつシオンに来る。彼らは楽しみと喜びを得、悲しみと嘆きは逃げる。(イザヤ3510

   私達の主は、この二つの道に関してのみ語っている。というのは三つめの道が開かれるべき時はまだ来ていなかったからである。――ちょうど、主が喜びのおとずれを語った時、この聖句はあなたがたが耳にしたこの日に成就したと言って報復の日については語らなかったのは、その時がまだ、しかるべき時ではなかったからであるのと同じである。(ルカ419とイザヤ612を比較せよ)

   しかしながら現在、狭き道がその終点に近づくにつれて、義の大路は夜明けの光に照らされて、ますますはっきりと見え始めた。

     このように、現在この世の君に迷わされ、腐敗した嗜好に導かれて人類の大多数が歩みつつある広い道があることがわかった。また、その道はひとりの人間の不従順によって開かれ、その上で人類が無鉄砲な競争を始めたことも分った。

   聖なる大路が主によって開かれようとしていることも分った。主はすべての人類のためにご自身をささげ、その広い道が行き着く滅びから人類を救うのである。その道は、定められた時には主がご自分の貴重な血で買い取ったすべてのあがなわれた者にとって容易な歩きやすい道となるであろう。

   更にまた、その同じ貴重な血の功績によって開かれた現在の狭い道は、特別な賞与へ導く特別な道であって、間もなく全人類の祝福のために明らかにされようとしている神の国の栄光の中で、神性と主・イエスとの共同相続とにあずかるために、今選ばれつつある人々をテストし、訓練するものとして特に狭く、困難に作られていることも分った。そのような希望を抱く人々――この賞与を見る人々――は、その他のすべての希望を損と思い、ふん土のように思うであろう。(ピリピ3815

 

 

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