Perfecting a
nature does not
change a nature.There is
a variety
in perfection.
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各々の鉱物は純粋であっても、金は最高の位置に分類される。植物の階級の各々が完全であろうとも、それらは性質や階級が異なっている。動物も同様である。もし各々の種族が完全だとしても、様々な種類の違いは存在する。なぜなら、性質* の完全性に達することは、性質を変えることにはならないからである。霊的存在の階級もまた、完全であっても、
* 性質(nature)という言葉は、しばしば便宜的に使われる。例えば、犬はどう猛な性質を持つとか、馬はおとなしい性質を持つとか、悪い性質を持つとか言われる場合である。しかし、このような用法は、単に、他のものとの比較において説明される性質を意味するのであって、厳密に言えば、正確な意味の性質とは関わりがないのである。
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There are
distinct differences of each nature.The highest grade
of mineral
is a little lower than the lowest grade of vegetable, because
in vegetable
there is life. |
性質または種類において、各々に高いとか低いとかの関係に立つ。神の性質は、すべての霊的な性質の中で最も高く、優れている。キリストは復活に際して、ちょうど神が天使より優れているように、完全な天使より更に優れたものとされた。(ヘブル1:3~5)
上の図で分類された階級がはっきりと区別されている一方、それらの比較は次のように定めることが出来る。鉱物の最高階級は植物の最低階級より劣っている、または低い。なぜなら、植物には命があるからである。そして、植物の最高階級は動物の最低階級よりも少し低い。
なぜなら、動物の命は、最も低い形のものだろうとも存在を認識するに十分な知性を持つからである。同様に、人間は動物または地的存在の最高位置を占めるが、天使より少し低いのである。なぜなら、天使は霊的または天的存在だからである。 |
There is
a great contrast between sinful
and restored mankind.
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罪によって堕落した人間と、神が自分のかたちに造った完全な人間との間には驚くべき相違がある。罪は次第に人間の性格はもちろんのこと、その容貌をも変えていった。無知、不道徳。一般的堕落によって繁殖した人類の大部分は、神のかたちがほとんど跡かたもなくなるほどに、その人間性を曇らされそこなってしまった。
道徳的、知的な質はいじけ、過度に発達にた動物的本能は、もはやより高いものによってバランスをとることができなくなってしまった。人間は肉体的体力を失い、すべての医学的科学の助けをかりても、その平均寿命は約30年になってしまった。最初は、同じ罪の下に、人間は930年も生きたのである。
しかし、このように罪とその罰である死によって汚れ、堕落したにもかかわらず、キリストの千年支配の間に、その支配によって、人間は最初の精神と体の完全性へと回復され、栄光とほまれと支配権とを回復されることになっているのである。
キリストによって、キリストを通して回復されることになっているものは、アダムの反逆を通して失われたものである。(ロマ8:18、19)人間は、地上のパラダイスを失っただけで天上のパラダイスは失わなかった。有罪の宣告の下で、人間的存在を失っただけで、天的存在は失わなかった。、そして、失われたすべてのものは、失われたすべてのものを求め、救うために来た救い主によって買い戻されたのである。(ルカ19:10)
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Perfect man
is not
a spiritual being. |
上記に加え、完全な人間は霊的存在ではないという証拠が私達にはある。聖書の教えに従えば、私達の主は、人間になるためにその栄光を捨てる前には神のかたちであった――霊的なかたち、霊的存在。しかし、人類のあがないとなるためには、人間とならねばならず、すなわち、その代りとして死ぬ罪人と同じ性質にならねばならなかったので、主の性質が変わることが必要であった。
彼は、自分より一段低い性質である天使の性質をとらず、二段低い人間の性質をとった――すなわち人間になった。肉となった――とパウロは私達に語る。(ヘブル2:16、ピリピ2:7、8、ヨハネ1:14)
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このことは、天使の性質が、霊的存在の唯一の階級ではなく、主が人間になる前に持っていた性質より低い性質であることを教えている。主がその時に持っていた性質は、今の性質より低い――なぜならば、神は、人間のあがないとなるために示したその従順のゆえに、キリストを高く引き上げられたからである。(ピリピ2:8、9)キリストは今、霊的存在の中で最高の階級に属し、神(エホバ)の性質にあずかる者となったのである。
完全な人間は天使ではない
このように、私達は、神、天使、人間の性質はそれぞれ区別されるという証明を得るのみならず。完全な人間になることは、天使になることではないという証明を得る。それは、完全な天使は神であり、従ってエホバであるということが出来ないのと同様である。
なぜなら、イエスは天使の性質をとったのではなく、人間の性質をとったのであって、その人間性は、私達が現在見るような不完全な人間性ではなく、完全な人間性である。彼は人となった。すなわち、現在の堕落し、死んでいるも同然の人間ではなく、完全な力に溢れている人間である。 |
Jesus, being
a perfect man,
could keep
a perfect law. |
繰り返すが、イエスは完全な人間であったに違いない。さもなければ、完全な人間の能力の計りである完全な律法をを守ることは出来なかったはずである。もし彼が完全な人間でなかったならば、完全な人間、アダムの失った命(アダムに相当する代価――Ⅰテモテ2:6)のあがないとなることはできなかったはずである。死がひとりの人によってできたのだから、死人の復活もまたひとりの人によって来なければならない。(Ⅰコリント15:21)
もし、彼がほんの少しでも不完全であったならば、彼は有罪の下にあったことになるので、従って受け入れられる犠牲とはなり得なかったであろうし、また、神の完全な律法を完全に守ることも出来なかったであろう。完全な人間が試され、失敗し、有罪とされたのである。だから、完全な人間だけが救い主として、それに相当する代価を支払うことが出来たのである。
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Only a
perfect man
could give a
corresponding price
for a perfect man. |
さて、今度は、私達の前に別な形で問題が生ずる。すなわち、もし、肉にあるイエスが、聖書に示されているように、完全だったならば、それが完全な人間は天使ではなく肉的存在であり、天使より少し低い存在であることを証明することにはならないだろうかということである。
その理論的誤解の余地がない。それに加えて、私達には詩篇の記事(詩篇8:5)とヘブル2:7~9でそれに言及しているパウロの論述がある。
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イエスは、人性と霊性と二つの性質の合体ではない。二つの性質の混合は、その性質のいずれをも生み出さない。むしろ、神の取り決めとは相反する不完全な雑種を生み出す。イエスが肉にあった時、彼は完全な人間であった。その前には、彼は完全な霊的存在であった。そして復活以後は、彼は最も高い完全な性質、または神の階級に属する霊的存在となったのである。
彼が神の性質の厳粛な遺産を受け継いだのは(マタイ3:16、17)彼が死に至る献身――30才(律法で定められた聖人した人間の年齢)でバプテスマを受けたことに象徴される――した後であった。神の性質の保証を受ける前に、彼は人間としての性質を死にささげねばならなかった。
そして、その献身が実際に実行され、その人間性が実際に死に至る犠牲としてささげられるまで、私達の主イエスは完全に神の性質にあずかる者とはなり得なかったのである。人間になった後、彼は死に至るまで従順であった。それゆえに神は、彼を神の性質にまで高く引き上げたのである。(ピリピ2:8、9)
もしこの聖句が真理ならば、イエスはその人間性を実際に犠牲にする、すなわち、死ぬまでは神の性質へと高められなかったことになる。
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Jesus was not
a combination
of two natures.Twice,
Jesus experienced
a change of nature. |
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Jesus gave
an equivalent
for what Adam lost.
"For such an high priest became
us, who is holy, harmless, undefiled,
separate from sinners,
and made higher than the heavens." Hebrews 7:26 |
このように、イエスは幾つかの性質の合体ではないけれども、性質の変化を二度体験した。すなわち最初は霊性から人性へ、次には人性から霊性の最高階級である神性へと変化した。どちらの場合も、必ず前の性質を捨てて、次の性質になったのである。
全世界の救いのために犠牲をささげ終るまで、世界の前に汚れなきものの規範を示した。この完全な人間性の実例の中に、私達は、アダムにあって人類はここから堕落し、再び完全性へと回復されるべきものを見るのである。
私達の主イエスは、人間のあがないとなることによって、人間が失ったものと同等の価値を持つものを与えた。だから、全人類は、キリストを信じる信仰と、キリストの要求に従うことによって、再び霊性ではなく、栄光ある完全な人間性――それが失われたのだから――を受け取ることができるのである。
完全な人間の完全な能力と力が、新しい様々な問題のために無限に用いられ、知識と技量が大いに進歩するであろう。しかし、知識や力がいかに進歩しても性質を変えたり、またはその性質を完全以上のものにするように働くことはないであろう。それはあくまでも完全な人間の力であって、それが拡大され発達するにすぎない。
知識と技量の進歩は、人間にとって、永遠の祝福された特権であるには違いないが、人間はどこまで行っても人間であり、すでに持っている人間性の力をもっと完全に学ぶにすぎない。人間は、この広大な限界を越える望みを抱くことも、それを超えた進歩を願うこともできない。その願望は、人間の力の範囲内に限られているからである。
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"There
are also celestial bodies, and bodies terrestrial;
but the glory
of the celestial
is one,
and the glory
of the terrestrial
is another."
I Corinthians 15:40 |
人間としてのイエスは、人類の大多数が回復されるべき完全な人間性の実例であったけれども、復活後のイエスは、勝利を得る教会がその復活に際して、イエスと共に分かち合う栄光ある神の性質の実例である。
現在の時代は主として、性質の変化を提供されているこのクラスの発達のために与えらえているし、また、使徒の手紙はこの小さき群を導くために書かれたのだから、この選民の完成で終る神の計画が妨げられてはならない。また一方、私達は極端に走って、神の性質、霊の体などの特別な約束が、すべての人類のために考えられた神の計画であると考えてはならない。
それらの人々に与えられた尊い大いなる約束は、すべての人類になされた他の尊い約束より、はるかに優ったものなのである。真理の言葉を正しく識別するためには、私達は、聖書が小さき群における神性の完全と、回復される全世界における人間性の完全とを二つの異なったものとして区別していることに気がつかなければならない。 |
What is
a spirit being? |
さて、霊的存在とは何か?その力とは何か?その力とは何か?それはどんな律法によって支配されるのか?をもっと詳しく調べてみよう。多くの人々は、霊的存在の性質を理解しないために、これを単なる神話とし、また、この問題に関して多くの迷信が普及しているようである。しかし、パウロは、そのような概念を抱いていない。
パウロは、人間には人間より高い霊性を理解する能力がない(Ⅰコリント2:14)ことを暗示しているが、しかし、神話的、迷信的概念を防ごうとするかのように、人の体はもちろんのこと、霊の体がある。すなわち、他に属する体はもちろんのこと、天に属する体もある。地に栄光があるのはもちろんのこと、天に属する栄光がある、と語っている。
地上の栄光は、私達がすでに見て来たように、アダムの最初の罪によって失われたが、千年時代の間に主イエスとその花嫁(頭と体を伴うキリスト)によって人類に回復されることになっている。天上の栄光は、聖書の御言葉を通して霊によって信仰の目に示される以外にはまだ明らかにされていない。これら二つの栄光は、はっきりと区別されている。(Ⅰコリント15:38~49)
私達は、人間の完全な栄光については、ただのおぼろげに推測するにすぎないが、私達が地に属し、人間としての体を持っているので、それがどんなものであるか、ある程度は知っている。それは血と肉と骨である。肉から生まれるものは肉であるからである。それら二つがはっきりと区別された異なる体であるからには、霊的なものがどんなものであるにせよ、肉と血と骨から出来ているのではないことは確かである。
それは天的な霊的なものである。――霊から生まれるものは霊である。しかし霊的な体がどんなものであるのか私達は知らない。私達がどうなるのかはまだ明らかではない……しかし、私達は自分たちが彼――私達の主イエス――に似るものとなることを知っている。(ヨハネ3:6、Ⅰヨハネ3:2)
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人間は天使になるのではない
私達は霊的であろうが人的であろうが、特別な目的のための特別な場合である神の子を除いては、一つの性質から他の性質へと変化した存在の記録を持たない。神が天使を造られた時、彼らを永遠に天使にとどまるものとして造られたにちがいない。人類の場合も同様である。
各々は各々の階級内で完全なものとして造られた。少なくとも聖書は、それ以外の異なる目的については何も暗示していない。無生物の中には快い無限の種類が存在するように、生物と有知的被造物の中にも同様に、完全な様々な種類が存在する。すべての被造物はその完全な状態において栄光がある。しかし、パウロが言うように、天の栄光と地の栄光とは異なり、その間には差がある。 |
Spirit
beings
can be present,
yet invisible.
Elisha's Servant
saw Angels in Chariots
Spirit beings
can assume
human forms.
An Angel Appeared
to Gideon
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復活後の主イエスの記録とやはり同じ霊的存在である天使の記録とを比較する――霊によって霊のことを比較する(Ⅰコリント2:13)――ことによって、霊的存在に関する一般的知識を得ることができる。先ず第一に、天使はしばしば存在していても、目には見えないということである。
主の使は、主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる御使たちは、すべて仕える霊であって救いを受け継ぐべき人々に奉仕するためつかわされたものではないか?(詩篇34:7、ヘブル1:14)
彼らが仕えたのは目に見えたであろうか?それとも見えなかったであろうか?答えはその疑いなく後者である。エリシャはアッシリアの軍に囲まれ、エリシャの僕は恐れた。エリシャは主に祈った。すると僕の目が開かれたので、彼は火の馬と火の戦車が山に満ちているのを見た。またバラムに天使が見えなかった時にもロバの目が開かれてロバは天使を見た。
第二に、天使は人間の体をとって、人間として姿を現わすことができる。主と二人の御使がアブラハムに現われ、アブラハムが彼らのために準備した夕食を食べた。最初、アブラハムは彼らを人間だと思った。
18:1、2)一人の御使が人としてギデオンに現われたが、後に彼が御使であることを明らかにした。一人の御使がサムソンの父と母に現われた時、彼らはその御使が祭壇の炎のうちに天にのぼって行くまで彼を人だと思っていた。(士師記6:11~22、13:20)
第三に、霊的存在者は、普通の状態において栄光に満ちている。そしてしばしば輝くものとして語られる。墓の石をころがした天使の姿はいなずまのようであった。
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Spirit beings
are glorious
and bright.
Saul of Tarsus
"At midday, O King, I saw in the way a light from heaven, above the brightness of the
sun, shining round about me and them which journeyed with me.
And when we were all fallen to the earth, I heard a voice speaking
unto me, and saying in the Hebrew tongue, Saul, Saul, why persecutest thou me?
It is hard for thee to kick against the pricks."
Acts 26:13,14 |
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ダニエルは霊の体を見て、その体は緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足はみがいた青銅のように輝き、その言葉の声は群衆の声のようであったと言っている。その前にダニエルはひれ伏し死人のようになった。(ダニエル10:6、10、15、17)
タルサスのサウロは、真昼の太陽の光に優って光るキリストの栄光ある体の輝きを見た。サウロは視力を失い、地に倒れた。
このように霊的存在者は、全く栄光に輝き、それを見るために目を開かれた場合と、人間として肉において現われた場合を除けば、人間には見ることのできないものであることが分った。
この結論は、これらの現象をもっと詳しく調べると更に確証される。主はサウロだけに見えたのであって、同行者たちはその声は聞いたが、だれも見えなかった。(使徒行伝9:7)
ダニエルと共にいた人々は、ダニエルが語るような輝かしい存在者を見なかったが、非常に恐れて逃げ身をかくした。
またこの輝かしい存在者はペルシャの国の君が21日間、わたしの前に立ちふさがったと語っている。
主から大いに愛されたダニエルは、このペルシャの君が21日間も立ちふさがった者の前に死人のようにひれ伏したのだろうか?
勿論、彼はペルシャの君の前に輝きにおいて現われたのではなかった。また目には見えないものとして現われたのでもなかった。ということは、人間として現われたのである。
私達の主は、復活以後、霊的存在者である。従って今、私達が例にとったような天使(霊的存在者)が持つ同じ力を持っているはずである。このことは、次章においてもっと十分に分かるであろう。
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Spiritual and
human natures
are distinct. |
このように、聖書は冷静と人性とを区別し、一方が他方に進化するというような証明を与えていないことが分る。むしろ反対に、ごく少数のみが人性から神性へと変えられるであろうことと、彼らの頭となるイエスはすでに神性にまで高められていることを示している。
この素晴らしい特別なエホバの計画における特徴は、万物を回復する未来の偉大なる業を神の代理として行う少数者を準備する驚くべき特別な目的のためのものである。次に致死性と不死性という言葉の意味を調べることにしよう。
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Mortality
means
death is possible. |
致死性と不死性
(Mortality
and Immortality)
人性と霊性,地的約束と天的約束に関する聖書のことばの比較から私達が今まで学んできたことと、このことばの真意とは全く一致する。これらの言葉は一般に非常に不確かな意味を与えられている。そして、その意味に対する間違った観念がこの問題に関する一般的、聖書的な誤った見解を生み出している。
致死性は死にやすい傾向の状態を意味する。すなわち、死の状態を意味するのではなく、死が可能である状態を意味する。
不死性は死の傾向がない状態、すなわち、死からのがれる状態ではなく、死が不可能な状態を意味する。致死性に対する一般的な概念が死をまぬがれない状態であるという間違ったものである一方、不死性に対する一般的な概念はほとんんど正しい。
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Immortality
means
death is impossible.There is
confusion on mortality
and immortality. |
不死性という言葉は、致死性ではないことを意味する。だから、ことばの構成そのものがその真の定義を暗示している。アダムが罪を犯す前には、致死性であったか、不死性であったかを決定しようとする時、多くの人々が混乱におちいるのは、その言葉に関する誤った観念のためである。
もし、アダムが不死性だったならば、神はそれを食べればその日のうちにきっと死ぬであろう。とは言わなかったであろう、と彼らは推論する。なぜなら、不死性の存在者が死ぬことは不可能だからである。これは理論的である。
これに反して、もしアダムが致死性だったならば、必ず死ぬであろうという言葉には恐怖または罰が存在し得たであろうか。もし致死性であったなら(彼らの誤った定義に従えば)いずれにしろ死をまぬがれなかったはずである。と彼らは言う。
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Mortal life
is sustained by external elements. |
この困難は、致死性という言葉に与えられた誤った意味から生ずるのである。正しい定義を当てはめれば、すべて解決する。アダムは致死性であった――ということは、死ぬことが可能な状態にあった。彼は十分にして完全な命を持っていた、しかし、それは固有の命ではなかった。
彼の命は禁断の一本の木以外の園のすべての木によって支えられる命であった。だから彼が創造者に従い、創造者と調和を保っている限り、彼の命も安全であった。――命を支える要素は拒まれなかった。だからアダムは命を持ち、死は全く避けられ得るものであった。しかし彼は、死に得るような状態にいたのである――すなわち、彼は致死性だったのである。
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そこで一つの疑問が生ずる。もし、アダムが致死性であって、試練を受けたのなら、それは不死性を得るための試練であったのか?
これに対する一般的答えはイエスであるが、私達の答えはノーである。彼の試練はすでに持っていた命と祝福とを持続する価値があるかないかを見るための試練であった。もし従順であれば、アダムは不死性となるというような約束はどこにもないので、私達は確かにそのようなすべての推論を否定することが出来る。
アダムはその時享受していた祝福の持続を従順である限り約束されていた。そしてもし、不従順を犯せばすべてを喪失する――死ぬ――という危険にさらされていたのである。死なないものはすべて不死性であると結論するように人々を導くのは、致死性という言葉の意味の誤った観念である。そのために、彼らは天の父、主イエス、すべての人類をこのクラスに入れてしまうのである。
しかしそれは間違いである。堕落から救われる人類の大多数は、天の天使と同様に常に致死性である。完全と幸福の状態にあったとしても、彼らは常に、もし罪を犯せば罪の報酬である死を味わい得る致死性に属するのである。
彼らの存在の安全性は、アダムの場合と同様に、全知の神への従順という条件つきである。神の主義と愛と知恵、そして神を愛し神に仕える人々すべてを善となるように働かせる神の力は、神が現在の罪を許しているその方法によって十分に証明されるであろう。
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Only the
Divine Nature
is immortal.
The great mass
of mankind will always be mortal.Satan is to be destroyed,
which proves that angels are mortal. |
天使は不死性ではない
聖書の中には、天使が不死性であるとか、回復される全人類は不死性となると書かれている所はない。むしろ反対に、不死性は神性にのみ属するとされている――最初はエホバにのみ、次に、現在の高められた状態にいる私達の主イエスに、そして最後に約束によってイエスと共に栄光に輝く時にキリストの体である教会に与えられる。(Ⅰテモテ6:16、ヨハネ5:26、Ⅱペテロ1:4、Ⅰコリント15:53、54)
私達は、不死性が神性にのみ属するという証拠を持つばかりではなく、天使は致死性であるという証拠を、かつては天使の中でも最高の地位にあったサタンが滅ぼされることになっている(ヘブル2:14)という事実の中に見ることが出来る。サタンが滅ぼされるという事実は、一階級としての天使が致死性であるということを証明する。
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こう考えれば、救いがたい罪人は清められ、不死性と致死性の両方の存在者は、喜びと幸福と愛のうちに永遠に生きることを、私達は知るのである。――前者は固有の命、すなわち彼ら自身の内に命を持ち、死ぬことが出来ない性質を持つ。
後者は死ぬことはできるが、完全であって、悪と罪の知識を持つので、死を生ずる理由を持たない。尚また後者は、神の律法に承認され、彼らの命を支えるために必要な完全な要素を供給され、死ぬことはないであろう。
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Man being
mortal destroys
the doctrine
of eternal torment."The soul
that sinneth,
it shall die." |
致死性と不死性という言葉の意味と聖書の中でそれらがどのように使われているかを正しく認識することは、永遠の拷問という教理を根底からくつがえす。拷問の教理は、神は人間を不死性に創造したので人間は死ぬことが出来ず、神は人間を滅ぼすことが出来ない、という非聖書的な理論に基づいている。
従って、救いがたい人々は、どこかに何らかの方法で生きなければならず、しかし、彼らは神と調和しないので、その永遠の存在は悲惨なものでなければならないという結論になる。しかし、神の言葉は、そのような罪と罪人の永続に反し、人間は不死性であり、十分な光と知識に逆らう故意の罪への罰は、拷問にかけられる命ではなく、第二の死であることを私達に確証している。罪を犯す魂は必ず死ぬ。
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あなたは神に逆らうとは、いったい何者なのか?
(ロマ9:20)
神がその被造物に与える愛顧に差があってはならないということを、正義は要求するので、もし神がある者を高い地位にあげるなら、正義によって神はすべての者をを同じように高めなければならないというのは一部の人々の誤解である。
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God had a
right
to create Jesus higher than
the angels. |
もし、これが正しいならば、神がすべての天使及びすべての人類に同じようにする意図がない限り、イエスを天使よりも高いものとして創る権利を持たなかったばかりか、イエスを神聖に高める権利も持たなかったことになる。
その原理を更に進めると、もし一部の人間が高められ神性にあずかるものとされるならば、すべての人間は最終的にその同じ地位まで高められなければならないことになる。この原理を極限までつきつめ、同じ律法を獣や昆虫に適用し、それらもすべて神の被造物なのだから、最終的には最も高い存在の地位――神性――に到達しなければならないと言えないだろうか?これは明らかに不条理であるが、この仮定的原理に立って推論すれば、こうなるのである。
|
|
恐らく、ここまで誤った推論を進める人はいないであろう。しかし、もしそれが絶対的な正義に基づくならば、どこで推論を止め、しかも正義であり得ることができようか?もし、そのようなことが確かに神の計画であるならば、すべての神の御手の業の多様性はどこにあるのか?
しかし、そのようなものが神の計画ではない。無生物も有生物もすべての性質は、神の力と知恵の栄光と多様性とを示している。
素晴らしい多様性と美の中に、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざを示すように、神の有知的被造物は、多様性の中にはるかに優れた神の力の栄光を示す。神の言葉の教えと、理論と、そして自然界の一致から私達はこのように結論する。
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Justice
understood. |
正義に対する正しい観念を持つことは非常に大事である。恵みは、当然の報酬であると考えられるべきではない。純然たる正義の行為は、特別な感謝を生じさせるものでもなければ、愛の証明にもならない。神は、その偉大な愛を限りない恩恵として被造物にゆだね、その結果として被造物の愛と讃美を呼び起こすのである。 |
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神は、もし臨むならば例え私達が罪を犯さなくても、私達を単に短い間だけ存在する被造物として創造する権利を持っていた。ある種の下等な被造物は、そのように創られているのである。神は、私達にある時期の間のみ、神の祝福を楽しむことを許し、何の不正もなく、私達すべてを存在から消し去ることも出来たのである。
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Aspiration of Lucifer--
"How art thou
fallen from heaven,
O Lucifer,
son of the morning!
"How art thou cut down to the ground,
which didst weaken
the nations!
"For thou hast said
in thine heart, I will ascend into heaven,
I will exalt my throne above the stars of God:
"I will sit also upon the mount of the congregation, in the sides
of the north."
Isaiah 14:12,13 |
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私達が存在するということは、全く神の恵みによるのである。一度、罪によって失われた存在が救いによって回復されるとすれば、どんなにかその恵みは大きいことか!更に、私達が獣ではなく、人間であることは神の恵みによるのであり、また天使が人間より少し高い性質を持つのも、純粋に神の恵みによるのであり、そして主イエスとその花嫁が神の性質にあずかる者となるのも神の恵みによるのである。
だから、神の有知的被造物のすべては、神の与えるものが何であれ、感謝を持って受け取るべきである。これ以外の精神は有罪を招き、堕落と滅亡に終わらせる。人間は、天使の地位に招かれていないのだから、天使になることを願う権利を持たない。
また天使は、神性を提供されていないのだから、神性を望む権利を持たない。サタンの下降をもたらし、サタンを滅亡に終わらせるものは、サタンのプライドの野心であった。(イザヤ14:14)おおよそ、自分を高く――最高の地位である必要はない――する者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカ14:11)
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Abraham
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一部には、正義に対する誤った観念から、また一部には他の原因から、聖書に教えられている択びの問題は、多くの論争と誤解を生じてきた。聖書が選びを教えていることを否定する人は少ないが、選びがいかなる原理に基づいているかが、様々な異なった意見の問題点である。
ある人々はそれは一方的な無条件の選びであると主張し、また他の人々は、条件つきの選びであると主張する。これらの見解には、どちらもある程度の真理があると私達は信じる。神の側から見れば、選びは特定の任務と目的のための選択の表現である。
神はその被造物のうちからある者を天使、ある者を人間、ある者を獣や昆虫など、またある者を自分と同じ神性となるべく選んでいるのである。神は神性を受くべきすべての者を特定の条件に従って選択するけれども、これらの者は、他の者より優っているということは出来ない。なぜなら、いかなる被造物がいかなる階級に存在するのも全く恩恵によるからである。
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神が彼らに神性への招きを与えられたのは、選ばれた者が、他の者より優れているからではない。なぜなら、神は罪を犯さなかった天使を通り越して、救われた罪人の中からある者を神の栄光へと招いたからである。神は、みこころのままに支配する権利を持ち、神の計画の完成のために、この権利を行使するのである。このように、私達が持つすべては、神の恵みによるものであるから、
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Hath not the potter power
over the clay?
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ああ人よ、あなたは神に言い逆らうとは、いったい何者なのか。造られたものが造った者に向かって「なぜ私をこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を作る者は、同じ土くれから一つを尊い器に、他を卑しい器に作りあげる権能がないであろうか。(ロマ9:20、21)すべては、同じ神の力によって――ある者は高い性質と偉大なる栄光を持つべく、またある者は低い性質と小さな栄光を持つべく――創造されたのである。
イスラエルの聖者、イスラエルを造られた主はこう言われる「あなたがたは、わが子らについて私に問い、また我が手のわざについて私に命ずるのか。私は地を造って、その上に人を創造した。私は手をもって天をのべ、万軍を指揮した。
天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造りなし、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる。「私は主である。私のほかに神はいない」(イザヤ45:11、12、18)
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神に向って命令する権利を持つ者はだれもいない。もし神が地を造り、これをいたずらに創造されず。回復される完全な人類のすみかとされたのなら、人類の性質を変え、すべての者を天使の霊性か、神ご自身の神性にあずかる者としないのは不公平であると、神に逆らって言う私達は何者なのか?私達の考えを遂行すべきであると神に命じたり、主張するより、神の言葉の前に謙遜になり、来たるべき事柄に関して尋ね求めることの方が、どんなにか私達にふさわしいことであろう。
主よ、あなたの僕をひきとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。神の子供のうちには、故意に主に命令する者はだれもいないと私達は信ずるけれども、しかし、いかに多くの人々が無意識のうちにこの誤りに陥りやすいことだろう。
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The human
race are Gods children by creation the work of his hands. |
天使より少し低い人間
人類は、創造の点から言えば、神の御手の業であって、神の子である。そして人類に関する神の計画は、神の言葉の中にはっきりと示されている。パウロは、最初の人(人類が完全になる時どうなるかという実例)は、地から来て地に属し、福音教会の例外を除いて、その子孫は復活に際しても地的な人間であり、地に属するものであると言っている。(Ⅰコリント15:38、44)
8:4~8)ペテロも、私達の主も、この世の始めからすべての預言者も、人類は栄光ある完全性へと回復させられ、人類を代表するアダムがかつてしていたように、再び地を支配することになっていると語っている。(使徒行伝3:19~20)
神が人類に与えるべく選らんだのは、この地的なものである。それは、何と栄光に富んでいることか!
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