世々にわたる神の計画

 

第 10 章

 

 霊性と人性との区別 

 

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一一般的誤解

一一地的または人間的性質と天的または霊的性質

一一地上の栄光と天上の栄光

一一霊的存在者に関する聖書の証言

一一致死性と不死性

一一致死性のものが永遠の命を持つことはできるか?

一一恩恵の授与における正義

一一検討された仮定的真理

一一様々な完全性

一一神の主権

一一人間に対する摂理は満足のいく定めである

一一キリストの体の選定

一一その性質の変化はどのようになされるのか?

 

 

Church1C.jpg (6458 bytes)      キリスト教会は一般に、人類に関する神の計画か、以前の状態――すなわち、エデンで失われた人間の完全性――への回復を意図していること、及びキリスト教会はこの計画の例外として、人性から霊性への性質上の変化を受けるものであることを理解しないために、霊的性質に達しない者はだれも救われないと考えている。

   しかし、聖書は地上のすべての家族への命と祝福と回復の約束を示している一方、福音時代の間に選ばれた教会に対してのみ性質の変化を約束しているのであって、それ以外の人にそのような希望が与えられているとは決して教えていない。

Family8.jpg (66939 bytes)      もし、人類の大多数が罪の結果である堕落、弱さ、痛み、悲惨、死のすべてから救われ、堕落する以前に享受していた人間の完全性への状態へと回復されたなら、人類は福音時代の特別な高い召しの下に神性を授けられる者と全く同じように、本当にかつ完全にその堕落から救われるのである。
What is
a perfect man?

Jesus40Teaching.jpg (5587 bytes)

     完全な人間を形成するものが何であるかを正しく理解しないこと、致死性と不死性という言葉への誤解、正義に対する誤った観念が、このような誤りに導き、容易に理解され得る多くの聖句を不可解なものにする。

   聖書的裏付けが全くないにもかかわらず、一般に採用されている見解は、かつて、おの地上に完全な人間が存在したことはなく、完全に見える人間も、人間性を部分的に発達させたにすぎず、完全に達するためには霊的なものにならなければならないということである。

There were only two perfect men – Adam and Jesus.
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     聖書はかつて完全な人間がたった二人だけ存在したことを教えている――それはアダムとキリストである。アダムは神のかたちに創造された。ということは、理性、記憶、判断、意志などの精神的な力、および正義、あわれみ、愛などの道徳的性質において、神に似たものとして創造されたということである。

地から来て、地に属したアダムは、その程度と範囲には大差はあっても、霊的存在者と同種類の性質を持つ上のかたちだったのである。さあ、われわれは互いに論じようと堕落した人間に神が語られるほどに人間は神のかたちに似ているのである。

Adam was made ruler over
all earthly things...

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...a little lower
than the angels.

     エホバがすべてのものの上に支配者であるように、人間は地に属するすべてのものの上に支配者なのである――われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう。(創世記126

   モーゼは、神は造った――造り始めたのみならず完成した――人間を認めてはなはだ良かったすなわち完全であったとされた、と私達に語っている。なぜなら、神の目には完全性に欠けるものがはなはだ良いはずがないからである。

     造られた者としての人間の完全性は、詩篇858で表わされている。ただ少し人を天使よりも低く造って、栄えと誉れをこうむらせ、これに御手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも

"All flesh
is not the same;
but there is
one kind of flesh
of men, another
flesh of beasts, another of fishes, and
another of birds."
I Corinthians 15:39

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   一部の人々によって、聖書は進化論説と一致しているということが提言されてきた。それはヘブル27に出ている少しという言葉を、天使よりも程度において少し低くではなく、少しの間低くという意味に解釈するためである。しかし、このような解釈に対しては権威も理由もない。

   これは詩篇85からの引用であるが、ヘブル語とキリシャ語の原点を比較すれば、この意味に関して、疑問の余地を与えない。それは、天使よりも程度において、少し低くという意味であることは明確である。

 

 

 

 

 

 

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     ダビデは、詩篇の中で人間の最初の状態のことを語って、神は人間を、神のかたちにし、地上の王とするという最初の計画を捨てたのではなく、人間を覚え、救い、その同じ状態を再び回復するであろうことを預言的に暗示しているのである。

   使徒パウロは(ヘブル27)この同じ事実に注意を喚起している。すなわち、神の最初の目的は、捨てられてはいないこと、本来、威厳のある完全な地上の王であった人間は、覚えられ、報いられ、回復されると語っている。それに加えて使徒は、私達はこの約束の回復をまだ見ていないけれども、その完成に向って、神がとっている最初の段階を確かに見ると語っている。私達は、イエスが完全な人間としての栄光とほまれを冠として与えられたのを見る。

   それは、神の恵みによって、イエスが適切なあがない、すなわち代理として、すべての人間のために死を味わい、失われたすべてのものを人間に回復する道を開いたのである。最も細部にわたって良心的な翻訳者の一人Rotherham はこの節を次のように訳している。

人が何者だから、あなたは彼を覚えられ、人の子が何者だからあなたは彼をかえりみられるのか?あなたは彼を天使達より少し低く造り、栄光とほまれとを冠として与え、彼をあなたの御手のわざの上に置かれた。

"A little lower" does not mean
a little less perfect.
     程度において少し低いということを、完全性に欠けるという意味に取るべきではない。一つの被造物が完全であるとしても、他の被造物より低い存在であり得る。例えば、完全な馬は、完全な人間より劣ると言える。生物にも無生物にも様々な種類の性質がある。それを示すために次の図を掲げる。

 

天的又は霊的
存在の階級 
地的又は動物
の階級 
植物の階級 鉱物の階級
SpiritF.jpg (1550 bytes) Bird3GeeseF.jpg (2699 bytes) Tree1F.jpg (3217 bytes) EmeraldF.jpg (2559 bytes)
人間 樹木
―――― 獣類 潅木

―――― 鳥類 草類
天使 魚類 苔類

 

Perfecting a nature does not
change a nature.

There is
a variety
in perfection.

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     各々の鉱物は純粋であっても、金は最高の位置に分類される。植物の階級の各々が完全であろうとも、それらは性質や階級が異なっている。動物も同様である。もし各々の種族が完全だとしても、様々な種類の違いは存在する。なぜなら、性質* の完全性に達することは、性質を変えることにはならないからである。霊的存在の階級もまた、完全であっても、

* 性質(nature)という言葉は、しばしば便宜的に使われる。例えば、犬はどう猛な性質を持つとか、馬はおとなしい性質を持つとか、悪い性質を持つとか言われる場合である。しかし、このような用法は、単に、他のものとの比較において説明される性質を意味するのであって、厳密に言えば、正確な意味の性質とは関わりがないのである。

There are
distinct differences of each nature.

The highest grade
of mineral
is a little lower than the lowest grade of vegetable, because
in vegetable
there is life.

     性質または種類において、各々に高いとか低いとかの関係に立つ。神の性質は、すべての霊的な性質の中で最も高く、優れている。キリストは復活に際して、ちょうど神が天使より優れているように、完全な天使より更に優れたものとされた。(ヘブル135

上の図で分類された階級がはっきりと区別されている一方、それらの比較は次のように定めることが出来る。鉱物の最高階級は植物の最低階級より劣っている、または低い。なぜなら、植物には命があるからである。そして、植物の最高階級は動物の最低階級よりも少し低い。

   なぜなら、動物の命は、最も低い形のものだろうとも存在を認識するに十分な知性を持つからである。同様に、人間は動物または地的存在の最高位置を占めるが、天使より少し低いのである。なぜなら、天使は霊的または天的存在だからである。

There is
a great contrast between sinful
and restored mankind.

 

 

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    罪によって堕落した人間と、神が自分のかたちに造った完全な人間との間には驚くべき相違がある。罪は次第に人間の性格はもちろんのこと、その容貌をも変えていった。無知、不道徳。一般的堕落によって繁殖した人類の大部分は、神のかたちがほとんど跡かたもなくなるほどに、その人間性を曇らされそこなってしまった。

   道徳的、知的な質はいじけ、過度に発達にた動物的本能は、もはやより高いものによってバランスをとることができなくなってしまった。人間は肉体的体力を失い、すべての医学的科学の助けをかりても、その平均寿命は約30年になってしまった。最初は、同じ罪の下に、人間は930年も生きたのである。

   しかし、このように罪とその罰である死によって汚れ、堕落したにもかかわらず、キリストの千年支配の間に、その支配によって、人間は最初の精神と体の完全性へと回復され、栄光とほまれと支配権とを回復されることになっているのである。

   キリストによって、キリストを通して回復されることになっているものは、アダムの反逆を通して失われたものである。(ロマ81819)人間は、地上のパラダイスを失っただけで天上のパラダイスは失わなかった。有罪の宣告の下で、人間的存在を失っただけで、天的存在は失わなかった。、そして、失われたすべてのものは、失われたすべてのものを求め、救うために来た救い主によって買い戻されたのである。(ルカ1910

Perfect man
is not
a spiritual being.
    上記に加え、完全な人間は霊的存在ではないという証拠が私達にはある。聖書の教えに従えば、私達の主は、人間になるためにその栄光を捨てる前には神のかたちであった――霊的なかたち、霊的存在。しかし、人類のあがないとなるためには、人間とならねばならず、すなわち、その代りとして死ぬ罪人と同じ性質にならねばならなかったので、主の性質が変わることが必要であった。

   彼は、自分より一段低い性質である天使の性質をとらず、二段低い人間の性質をとった――すなわち人間になった。肉となった――とパウロは私達に語る。(ヘブル216、ピリピ278、ヨハネ114

Jesus13A.jpg (4363 bytes)      このことは、天使の性質が、霊的存在の唯一の階級ではなく、主が人間になる前に持っていた性質より低い性質であることを教えている。主がその時に持っていた性質は、今の性質より低い――なぜならば、神は、人間のあがないとなるために示したその従順のゆえに、キリストを高く引き上げられたからである。(ピリピ289)キリストは今、霊的存在の中で最高の階級に属し、神(エホバ)の性質にあずかる者となったのである。    

完全な人間は天使ではない

このように、私達は、神、天使、人間の性質はそれぞれ区別されるという証明を得るのみならず。完全な人間になることは、天使になることではないという証明を得る。それは、完全な天使は神であり、従ってエホバであるということが出来ないのと同様である。

   なぜなら、イエスは天使の性質をとったのではなく、人間の性質をとったのであって、その人間性は、私達が現在見るような不完全な人間性ではなく、完全な人間性である。彼は人となった。すなわち、現在の堕落し、死んでいるも同然の人間ではなく、完全な力に溢れている人間である。

Jesus, being
a perfect man,
could keep
a perfect law.

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     繰り返すが、イエスは完全な人間であったに違いない。さもなければ、完全な人間の能力の計りである完全な律法をを守ることは出来なかったはずである。もし彼が完全な人間でなかったならば、完全な人間、アダムの失った命(アダムに相当する代価――Ⅰテモテ26)のあがないとなることはできなかったはずである。死がひとりの人によってできたのだから、死人の復活もまたひとりの人によって来なければならない。コリント1521

   もし、彼がほんの少しでも不完全であったならば、彼は有罪の下にあったことになるので、従って受け入れられる犠牲とはなり得なかったであろうし、また、神の完全な律法を完全に守ることも出来なかったであろう。完全な人間が試され、失敗し、有罪とされたのである。だから、完全な人間だけが救い主として、それに相当する代価を支払うことが出来たのである。

Only a perfect man
could give a
corresponding price
for a perfect man.
     さて、今度は、私達の前に別な形で問題が生ずる。すなわち、もし、肉にあるイエスが、聖書に示されているように、完全だったならば、それが完全な人間は天使ではなく肉的存在であり、天使より少し低い存在であることを証明することにはならないだろうかということである。

   その理論的誤解の余地がない。それに加えて、私達には詩篇の記事(詩篇85)とヘブル279でそれに言及しているパウロの論述がある。

 

 

 

 

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     イエスは、人性と霊性と二つの性質の合体ではない。二つの性質の混合は、その性質のいずれをも生み出さない。むしろ、神の取り決めとは相反する不完全な雑種を生み出す。イエスが肉にあった時、彼は完全な人間であった。その前には、彼は完全な霊的存在であった。そして復活以後は、彼は最も高い完全な性質、または神の階級に属する霊的存在となったのである。

   彼が神の性質の厳粛な遺産を受け継いだのは(マタイ31617)彼が死に至る献身――30才(律法で定められた聖人した人間の年齢)でバプテスマを受けたことに象徴される――した後であった。神の性質の保証を受ける前に、彼は人間としての性質を死にささげねばならなかった。

   そして、その献身が実際に実行され、その人間性が実際に死に至る犠牲としてささげられるまで、私達の主イエスは完全に神の性質にあずかる者とはなり得なかったのである。人間になった後、彼は死に至るまで従順であった。それゆえに神は、彼を神の性質にまで高く引き上げたのである。(ピリピ289

   もしこの聖句が真理ならば、イエスはその人間性を実際に犠牲にする、すなわち、死ぬまでは神の性質へと高められなかったことになる。

Jesus was not
a combination
of two natures.

Twice,
Jesus experienced
a change of nature.

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Jesus gave
an equivalent
for what Adam lost.

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"For such an high priest became us, who is holy, harmless, undefiled,
separate from sinners,
and made higher than the heavens." Hebrews 7:26

     このように、イエスは幾つかの性質の合体ではないけれども、性質の変化を二度体験した。すなわち最初は霊性から人性へ、次には人性から霊性の最高階級である神性へと変化した。どちらの場合も、必ず前の性質を捨てて、次の性質になったのである。

全世界の救いのために犠牲をささげ終るまで、世界の前に汚れなきものの規範を示した。この完全な人間性の実例の中に、私達は、アダムにあって人類はここから堕落し、再び完全性へと回復されるべきものを見るのである。

   私達の主イエスは、人間のあがないとなることによって、人間が失ったものと同等の価値を持つものを与えた。だから、全人類は、キリストを信じる信仰と、キリストの要求に従うことによって、再び霊性ではなく、栄光ある完全な人間性――それが失われたのだから――を受け取ることができるのである。

    完全な人間の完全な能力と力が、新しい様々な問題のために無限に用いられ、知識と技量が大いに進歩するであろう。しかし、知識や力がいかに進歩しても性質を変えたり、またはその性質を完全以上のものにするように働くことはないであろう。それはあくまでも完全な人間の力であって、それが拡大され発達するにすぎない。

   知識と技量の進歩は、人間にとって、永遠の祝福された特権であるには違いないが、人間はどこまで行っても人間であり、すでに持っている人間性の力をもっと完全に学ぶにすぎない。人間は、この広大な限界を越える望みを抱くことも、それを超えた進歩を願うこともできない。その願望は、人間の力の範囲内に限られているからである。

"There are also celestial bodies, and bodies terrestrial;
but the glory
of the celestial
is one,
and the glory
of the terrestrial
is another."
I Corinthians 15:40
     人間としてのイエスは、人類の大多数が回復されるべき完全な人間性の実例であったけれども、復活後のイエスは、勝利を得る教会がその復活に際して、イエスと共に分かち合う栄光ある神の性質の実例である。

現在の時代は主として、性質の変化を提供されているこのクラスの発達のために与えらえているし、また、使徒の手紙はこの小さき群を導くために書かれたのだから、この選民の完成で終る神の計画が妨げられてはならない。また一方、私達は極端に走って、神の性質、霊の体などの特別な約束が、すべての人類のために考えられた神の計画であると考えてはならない。

   それらの人々に与えられた尊い大いなる約束は、すべての人類になされた他の尊い約束より、はるかに優ったものなのである。真理の言葉を正しく識別するためには、私達は、聖書が小さき群における神性の完全と、回復される全世界における人間性の完全とを二つの異なったものとして区別していることに気がつかなければならない。

What is
a spirit being?

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     さて、霊的存在とは何か?その力とは何か?その力とは何か?それはどんな律法によって支配されるのか?をもっと詳しく調べてみよう。多くの人々は、霊的存在の性質を理解しないために、これを単なる神話とし、また、この問題に関して多くの迷信が普及しているようである。しかし、パウロは、そのような概念を抱いていない。

   パウロは、人間には人間より高い霊性を理解する能力がない(コリント214)ことを暗示しているが、しかし、神話的、迷信的概念を防ごうとするかのように、人の体はもちろんのこと、霊の体がある。すなわち、他に属する体はもちろんのこと、天に属する体もある。地に栄光があるのはもちろんのこと、天に属する栄光がある、と語っている。

   地上の栄光は、私達がすでに見て来たように、アダムの最初の罪によって失われたが、千年時代の間に主イエスとその花嫁(頭と体を伴うキリスト)によって人類に回復されることになっている。天上の栄光は、聖書の御言葉を通して霊によって信仰の目に示される以外にはまだ明らかにされていない。これら二つの栄光は、はっきりと区別されている。(コリント153849

   私達は、人間の完全な栄光については、ただのおぼろげに推測するにすぎないが、私達が地に属し、人間としての体を持っているので、それがどんなものであるか、ある程度は知っている。それは血と肉と骨である。肉から生まれるものは肉であるからである。それら二つがはっきりと区別された異なる体であるからには、霊的なものがどんなものであるにせよ、肉と血と骨から出来ているのではないことは確かである。

   それは天的な霊的なものである。――霊から生まれるものは霊である。しかし霊的な体がどんなものであるのか私達は知らない。私達がどうなるのかはまだ明らかではないしかし、私達は自分たちが彼――私達の主イエス――に似るものとなることを知っている。(ヨハネ36ヨハネ32

     人間は天使になるのではない

私達は霊的であろうが人的であろうが、特別な目的のための特別な場合である神の子を除いては、一つの性質から他の性質へと変化した存在の記録を持たない。神が天使を造られた時、彼らを永遠に天使にとどまるものとして造られたにちがいない。人類の場合も同様である。

   各々は各々の階級内で完全なものとして造られた。少なくとも聖書は、それ以外の異なる目的については何も暗示していない。無生物の中には快い無限の種類が存在するように、生物と有知的被造物の中にも同様に、完全な様々な種類が存在する。すべての被造物はその完全な状態において栄光がある。しかし、パウロが言うように、天の栄光と地の栄光とは異なり、その間には差がある。

Spirit beings
can be present,
yet invisible.

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Elisha's Servant
saw Angels in Chariots

Spirit beings
can assume
human forms.

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An Angel Appeared
to Gideon

     復活後の主イエスの記録とやはり同じ霊的存在である天使の記録とを比較する――霊によって霊のことを比較する(コリント213――ことによって、霊的存在に関する一般的知識を得ることができる。先ず第一に、天使はしばしば存在していても、目には見えないということである。

   主の使は、主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる御使たちは、すべて仕える霊であって救いを受け継ぐべき人々に奉仕するためつかわされたものではないか?(詩篇347、ヘブル114

   彼らが仕えたのは目に見えたであろうか?それとも見えなかったであろうか?答えはその疑いなく後者である。エリシャはアッシリアの軍に囲まれ、エリシャの僕は恐れた。エリシャは主に祈った。すると僕の目が開かれたので、彼は火の馬と火の戦車が山に満ちているのを見た。またバラムに天使が見えなかった時にもロバの目が開かれてロバは天使を見た。

第二に、天使は人間の体をとって、人間として姿を現わすことができる。主と二人の御使がアブラハムに現われ、アブラハムが彼らのために準備した夕食を食べた。最初、アブラハムは彼らを人間だと思った。

   1812)一人の御使が人としてギデオンに現われたが、後に彼が御使であることを明らかにした。一人の御使がサムソンの父と母に現われた時、彼らはその御使が祭壇の炎のうちに天にのぼって行くまで彼を人だと思っていた。(士師記611221320

第三に、霊的存在者は、普通の状態において栄光に満ちている。そしてしばしば輝くものとして語られる。墓の石をころがした天使の姿はいなずまのようであった。

Spirit beings
are glorious
and bright.

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Saul of Tarsus

   "At midday, O King, I saw in the way a light from heaven, above the brightness of the sun, shining round about me and them which journeyed with me.
   And when we were all fallen to the earth, I heard a voice speaking unto me, and saying in the Hebrew tongue, Saul, Saul, why persecutest thou me?
   It is hard for thee to kick against the pricks."
Acts 26:13,14
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    ダニエルは霊の体を見て、その体は緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足はみがいた青銅のように輝き、その言葉の声は群衆の声のようであったと言っている。その前にダニエルはひれ伏し死人のようになった。(ダニエル106101517

   タルサスのサウロは、真昼の太陽の光に優って光るキリストの栄光ある体の輝きを見た。サウロは視力を失い、地に倒れた。

   このように霊的存在者は、全く栄光に輝き、それを見るために目を開かれた場合と、人間として肉において現われた場合を除けば、人間には見ることのできないものであることが分った。

   この結論は、これらの現象をもっと詳しく調べると更に確証される。主はサウロだけに見えたのであって、同行者たちはその声は聞いたが、だれも見えなかった。(使徒行伝97

   ダニエルと共にいた人々は、ダニエルが語るような輝かしい存在者を見なかったが、非常に恐れて逃げ身をかくした。

   またこの輝かしい存在者はペルシャの国の君が21日間、わたしの前に立ちふさがったと語っている。

   主から大いに愛されたダニエルは、このペルシャの君が21日間も立ちふさがった者の前に死人のようにひれ伏したのだろうか?

   勿論、彼はペルシャの君の前に輝きにおいて現われたのではなかった。また目には見えないものとして現われたのでもなかった。ということは、人間として現われたのである。

    私達の主は、復活以後、霊的存在者である。従って今、私達が例にとったような天使(霊的存在者)が持つ同じ力を持っているはずである。このことは、次章においてもっと十分に分かるであろう。

Spiritual and human natures
are distinct.
     このように、聖書は冷静と人性とを区別し、一方が他方に進化するというような証明を与えていないことが分る。むしろ反対に、ごく少数のみが人性から神性へと変えられるであろうことと、彼らの頭となるイエスはすでに神性にまで高められていることを示している。

   この素晴らしい特別なエホバの計画における特徴は、万物を回復する未来の偉大なる業を神の代理として行う少数者を準備する驚くべき特別な目的のためのものである。次に致死性と不死性という言葉の意味を調べることにしよう。

Mortality
means
death is possible.

Grave1.jpg (10620 bytes)

致死性と不死性
Mortality and Immortality

   人性と霊性,地的約束と天的約束に関する聖書のことばの比較から私達が今まで学んできたことと、このことばの真意とは全く一致する。これらの言葉は一般に非常に不確かな意味を与えられている。そして、その意味に対する間違った観念がこの問題に関する一般的、聖書的な誤った見解を生み出している。

致死性は死にやすい傾向の状態を意味する。すなわち、死の状態を意味するのではなく、死が可能である状態を意味する。

不死性は死の傾向がない状態、すなわち、死からのがれる状態ではなく、死が不可能な状態を意味する。致死性に対する一般的な概念が死をまぬがれない状態であるという間違ったものである一方、不死性に対する一般的な概念はほとんんど正しい。

Immortality
means
death is impossible.

There is confusion on mortality
and immortality.

     不死性という言葉は、致死性ではないことを意味する。だから、ことばの構成そのものがその真の定義を暗示している。アダムが罪を犯す前には、致死性であったか、不死性であったかを決定しようとする時、多くの人々が混乱におちいるのは、その言葉に関する誤った観念のためである。

   もし、アダムが不死性だったならば、神はそれを食べればその日のうちにきっと死ぬであろう。とは言わなかったであろう、と彼らは推論する。なぜなら、不死性の存在者が死ぬことは不可能だからである。これは理論的である。

   これに反して、もしアダムが致死性だったならば、必ず死ぬであろうという言葉には恐怖または罰が存在し得たであろうか。もし致死性であったなら(彼らの誤った定義に従えば)いずれにしろ死をまぬがれなかったはずである。と彼らは言う。

Mortal life
is sustained by external elements.

 

     この困難は、致死性という言葉に与えられた誤った意味から生ずるのである。正しい定義を当てはめれば、すべて解決する。アダムは致死性であった――ということは、死ぬことが可能な状態にあった。彼は十分にして完全な命を持っていた、しかし、それは固有の命ではなかった。

   彼の命は禁断の一本の木以外の園のすべての木によって支えられる命であった。だから彼が創造者に従い、創造者と調和を保っている限り、彼の命も安全であった。――命を支える要素は拒まれなかった。だからアダムは命を持ち、死は全く避けられ得るものであった。しかし彼は、死に得るような状態にいたのである――すなわち、彼は致死性だったのである。

Adam1F.jpg (3944 bytes)      そこで一つの疑問が生ずる。もし、アダムが致死性であって、試練を受けたのなら、それは不死性を得るための試練であったのか?

   これに対する一般的答えはイエスであるが、私達の答えはノーである。彼の試練はすでに持っていた命と祝福とを持続する価値があるかないかを見るための試練であった。もし従順であれば、アダムは不死性となるというような約束はどこにもないので、私達は確かにそのようなすべての推論を否定することが出来る。

   アダムはその時享受していた祝福の持続を従順である限り約束されていた。そしてもし、不従順を犯せばすべてを喪失する――死ぬ――という危険にさらされていたのである。死なないものはすべて不死性であると結論するように人々を導くのは、致死性という言葉の意味の誤った観念である。そのために、彼らは天の父、主イエス、すべての人類をこのクラスに入れてしまうのである。

   しかしそれは間違いである。堕落から救われる人類の大多数は、天の天使と同様に常に致死性である。完全と幸福の状態にあったとしても、彼らは常に、もし罪を犯せば罪の報酬である死を味わい得る致死性に属するのである。

   彼らの存在の安全性は、アダムの場合と同様に、全知の神への従順という条件つきである。神の主義と愛と知恵、そして神を愛し神に仕える人々すべてを善となるように働かせる神の力は、神が現在の罪を許しているその方法によって十分に証明されるであろう。

Only the
Divine Nature
is immortal.
The great mass
of mankind will always be mortal.

Satan is to be destroyed,
which proves that angels are mortal.

     天使は不死性ではない

聖書の中には、天使が不死性であるとか、回復される全人類は不死性となると書かれている所はない。むしろ反対に、不死性は神性にのみ属するとされている――最初はエホバにのみ、次に、現在の高められた状態にいる私達の主イエスに、そして最後に約束によってイエスと共に栄光に輝く時にキリストの体である教会に与えられる。(テモテ616、ヨハネ526ペテロ14コリント155354

私達は、不死性が神性にのみ属するという証拠を持つばかりではなく、天使は致死性であるという証拠を、かつては天使の中でも最高の地位にあったサタンが滅ぼされることになっている(ヘブル214)という事実の中に見ることが出来る。サタンが滅ぼされるという事実は、一階級としての天使が致死性であるということを証明する。

     こう考えれば、救いがたい罪人は清められ、不死性と致死性の両方の存在者は、喜びと幸福と愛のうちに永遠に生きることを、私達は知るのである。――前者は固有の命、すなわち彼ら自身の内に命を持ち、死ぬことが出来ない性質を持つ。

   後者は死ぬことはできるが、完全であって、悪と罪の知識を持つので、死を生ずる理由を持たない。尚また後者は、神の律法に承認され、彼らの命を支えるために必要な完全な要素を供給され、死ぬことはないであろう。

Man being mortal – destroys
the doctrine
of eternal torment.

"The soul
that sinneth,
it shall die."

     致死性と不死性という言葉の意味と聖書の中でそれらがどのように使われているかを正しく認識することは、永遠の拷問という教理を根底からくつがえす。拷問の教理は、神は人間を不死性に創造したので人間は死ぬことが出来ず、神は人間を滅ぼすことが出来ない、という非聖書的な理論に基づいている。

   従って、救いがたい人々は、どこかに何らかの方法で生きなければならず、しかし、彼らは神と調和しないので、その永遠の存在は悲惨なものでなければならないという結論になる。しかし、神の言葉は、そのような罪と罪人の永続に反し、人間は不死性であり、十分な光と知識に逆らう故意の罪への罰は、拷問にかけられる命ではなく、第二の死であることを私達に確証している。罪を犯す魂は必ず死ぬ。

あなたは神に逆らうとは、いったい何者なのか?

(ロマ920

神がその被造物に与える愛顧に差があってはならないということを、正義は要求するので、もし神がある者を高い地位にあげるなら、正義によって神はすべての者をを同じように高めなければならないというのは一部の人々の誤解である。

God had a right
to create Jesus higher than
the angels.
     もし、これが正しいならば、神がすべての天使及びすべての人類に同じようにする意図がない限り、イエスを天使よりも高いものとして創る権利を持たなかったばかりか、イエスを神聖に高める権利も持たなかったことになる。

   その原理を更に進めると、もし一部の人間が高められ神性にあずかるものとされるならば、すべての人間は最終的にその同じ地位まで高められなければならないことになる。この原理を極限までつきつめ、同じ律法を獣や昆虫に適用し、それらもすべて神の被造物なのだから、最終的には最も高い存在の地位――神性――に到達しなければならないと言えないだろうか?これは明らかに不条理であるが、この仮定的原理に立って推論すれば、こうなるのである。

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     恐らく、ここまで誤った推論を進める人はいないであろう。しかし、もしそれが絶対的な正義に基づくならば、どこで推論を止め、しかも正義であり得ることができようか?もし、そのようなことが確かに神の計画であるならば、すべての神の御手の業の多様性はどこにあるのか?

   しかし、そのようなものが神の計画ではない。無生物も有生物もすべての性質は、神の力と知恵の栄光と多様性とを示している。

   素晴らしい多様性と美の中に、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざを示すように、神の有知的被造物は、多様性の中にはるかに優れた神の力の栄光を示す。神の言葉の教えと、理論と、そして自然界の一致から私達はこのように結論する。

Justice understood.      正義に対する正しい観念を持つことは非常に大事である。恵みは、当然の報酬であると考えられるべきではない。純然たる正義の行為は、特別な感謝を生じさせるものでもなければ、愛の証明にもならない。神は、その偉大な愛を限りない恩恵として被造物にゆだね、その結果として被造物の愛と讃美を呼び起こすのである。
Mouse.jpg (34144 bytes)      神は、もし臨むならば例え私達が罪を犯さなくても、私達を単に短い間だけ存在する被造物として創造する権利を持っていた。ある種の下等な被造物は、そのように創られているのである。神は、私達にある時期の間のみ、神の祝福を楽しむことを許し、何の不正もなく、私達すべてを存在から消し去ることも出来たのである。
   Aspiration of Lucifer--
   "How art thou
fallen from heaven,
O Lucifer,
son of the morning!
   "How art thou cut down to the ground,
which didst weaken
the nations!
   "For thou hast said

in thine heart, I will ascend into heaven,
I will exalt my throne above the stars of God:
   "I will sit also upon the mount of the congregation, in the sides of the north."
   Isaiah 14:12,13
     私達が存在するということは、全く神の恵みによるのである。一度、罪によって失われた存在が救いによって回復されるとすれば、どんなにかその恵みは大きいことか!更に、私達が獣ではなく、人間であることは神の恵みによるのであり、また天使が人間より少し高い性質を持つのも、純粋に神の恵みによるのであり、そして主イエスとその花嫁が神の性質にあずかる者となるのも神の恵みによるのである。

   だから、神の有知的被造物のすべては、神の与えるものが何であれ、感謝を持って受け取るべきである。これ以外の精神は有罪を招き、堕落と滅亡に終わらせる。人間は、天使の地位に招かれていないのだから、天使になることを願う権利を持たない。

   また天使は、神性を提供されていないのだから、神性を望む権利を持たない。サタンの下降をもたらし、サタンを滅亡に終わらせるものは、サタンのプライドの野心であった。(イザヤ1414おおよそ、自分を高く――最高の地位である必要はない――する者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカ1411

 

 

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Abraham

     一部には、正義に対する誤った観念から、また一部には他の原因から、聖書に教えられている択びの問題は、多くの論争と誤解を生じてきた。聖書が選びを教えていることを否定する人は少ないが、選びがいかなる原理に基づいているかが、様々な異なった意見の問題点である。

   ある人々はそれは一方的な無条件の選びであると主張し、また他の人々は、条件つきの選びであると主張する。これらの見解には、どちらもある程度の真理があると私達は信じる。神の側から見れば、選びは特定の任務と目的のための選択の表現である。

   神はその被造物のうちからある者を天使、ある者を人間、ある者を獣や昆虫など、またある者を自分と同じ神性となるべく選んでいるのである。神は神性を受くべきすべての者を特定の条件に従って選択するけれども、これらの者は、他の者より優っているということは出来ない。なぜなら、いかなる被造物がいかなる階級に存在するのも全く恩恵によるからである。

     神が彼らに神性への招きを与えられたのは、選ばれた者が、他の者より優れているからではない。なぜなら、神は罪を犯さなかった天使を通り越して、救われた罪人の中からある者を神の栄光へと招いたからである。神は、みこころのままに支配する権利を持ち、神の計画の完成のために、この権利を行使するのである。このように、私達が持つすべては、神の恵みによるものであるから、

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Hath not the potter power
over the clay?

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ああ人よ、あなたは神に言い逆らうとは、いったい何者なのか。造られたものが造った者に向かって「なぜ私をこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を作る者は、同じ土くれから一つを尊い器に、他を卑しい器に作りあげる権能がないであろうか。(ロマ92021)すべては、同じ神の力によって――ある者は高い性質と偉大なる栄光を持つべく、またある者は低い性質と小さな栄光を持つべく――創造されたのである。

イスラエルの聖者、イスラエルを造られた主はこう言われる「あなたがたは、わが子らについて私に問い、また我が手のわざについて私に命ずるのか。私は地を造って、その上に人を創造した。私は手をもって天をのべ、万軍を指揮した。

天を創造された主、すなわち神であって、また地をも造りなし、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる。「私は主である。私のほかに神はいない」(イザヤ45111218

     神に向って命令する権利を持つ者はだれもいない。もし神が地を造り、これをいたずらに創造されず。回復される完全な人類のすみかとされたのなら、人類の性質を変え、すべての者を天使の霊性か、神ご自身の神性にあずかる者としないのは不公平であると、神に逆らって言う私達は何者なのか?私達の考えを遂行すべきであると神に命じたり、主張するより、神の言葉の前に謙遜になり、来たるべき事柄に関して尋ね求めることの方が、どんなにか私達にふさわしいことであろう。

   主よ、あなたの僕をひきとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。神の子供のうちには、故意に主に命令する者はだれもいないと私達は信ずるけれども、しかし、いかに多くの人々が無意識のうちにこの誤りに陥りやすいことだろう。

The human race are God’s children by creation – the work of his hands.

     天使より少し低い人間

人類は、創造の点から言えば、神の御手の業であって、神の子である。そして人類に関する神の計画は、神の言葉の中にはっきりと示されている。パウロは、最初の人(人類が完全になる時どうなるかという実例)は、地から来て地に属し、福音教会の例外を除いて、その子孫は復活に際しても地的な人間であり、地に属するものであると言っている。(コリント153844

   848)ペテロも、私達の主も、この世の始めからすべての預言者も、人類は栄光ある完全性へと回復させられ、人類を代表するアダムがかつてしていたように、再び地を支配することになっていると語っている。(使徒行伝31920

     神が人類に与えるべく選らんだのは、この地的なものである。それは、何と栄光に富んでいることか!

 

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   罪のために広がった悲惨と苦難、堕落と悲しみにしばらくの間、目を閉じ、心の中に完全な地上の栄光の光景を描いてごらんなさい。

   罪の一点さえも、完全な社会の調和と平和をそこなうことなく、苦々しい思いも、不親切なよそおいも言葉もなく、すべての心に住む愛は互いに呼応しあい、慈愛がすべての行為をきわだたせる。

   病はもはや存在せず、痛みも、衰退の形跡もなく、そのようなものへの恐れさえない。かつて見た体の健康と美を描いたすべての絵を思い出し、そして完全な人間はそれらよりはるかに優れて美しいことを知るべきである。

   内面的清らかさと精神的、道徳的完全性がすべての人々の表情を栄光で輝かせる。地上の社会はそのようなものとなるであろう。

   悲しみの涙はすべてぬぐい去られ、その時、彼らは復活の業が完成したことを知るであろう。(黙示録214

 

Man will be absorbed
and enraptured with the glory on the human plane.

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As God rejoices
in perfection,
so will it be
with man.

 

 

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     これは人間の社会だけの変化であるが、そのような完全な人類が住むためのすみかとして造られた地球は、代表的人間、アダムが最初に置かれたエデンの園で示されるように、彼らに快い快適な住居となるであろう。地球はもはや、いばらとあざみを生じない。そして、パンを食べるために顔に汗する必要がなくなる。

   そのかわり、地は豊かに作物を生ずるであろう。さばくはサフランのように花咲き下等な被造物は完全となり、喜んで自ら進んで従順な僕となり、自然は快い多種多様性を持って、神の栄光と地からと愛を求め知るために、あらゆる方向から人間に呼びかけ、人々の心は神を喜ぶであろう。

   現在普及している、何か新しい物を知りたいという好奇心は、私達の不完全と不満足な環境から来る異常な状態であって、自然ではない。何か新しい物への落ち着きのない渇望は、神の性質ではない。神にとっては、新しいものはほとんどなく、古くて完全な物を喜ぶ。

   神のかたちに回復される時、人間も同じようになるであろう。完全な人間は、霊的存在者を十分に理解しないから、従って霊的栄光を望こともないだろう。なぜなら、ちょうど魚や鳥は自分自身の持ち前の性質を最も喜び、それを望むように、それらは異なる性質を持っているからである。

   人間は人間としての範囲内で、彼を取り巻く栄光に心を奪われていて、他の性質や他の状態への望みや好みを持たない。教会が現在経験している状態はこれを表わしている。この世の物に富んでいる人々が神の国に入るのは何と困難で難しいことか。悪と死が支配する現在に、わずかな物を持っているだけでも、私達の人間性は罪のとりこにされ易いので、私達は霊的な約束より目を放さず信仰をもって神からの特別な助けを懇願すべきである。

What is God’s
plan for the
Christian church?
     キリストの体であるキリスト教会が、人類のために神の計画の一般的計画の例外であるということは、選びが世界が造られる前から神の計画の中に定められていたという記述(エペソ145)から明らかである。

   神はその時から人類への罪への堕落を予見したばかりでなく、このクラスの義認と聖別と栄光をあらかじめ定め、福音時代の間に彼らを世界の中から選び、御子のかたちに従わせ、神性にあずかる者とし、世界の義と平和の確立のために千年王国のキリスト・イエスと共に相続者としたのである。((ロマ82831

The Church
is being selected
for a purpose.

The church class
is chosen by
an individual trial and by individually overcoming.

     これは教会の選びが、神があらかじめ定めた事柄であることを示している。しかし、教会の個々のメンバーの無条件の選びではないことに注目すべきである。世界が造られる前から、神はそのような集団が特定の時間内――福音時代――に、そのような目的のために選ばれるべきであることを、あらかじめ定められた。

   神がその教会の個々のメンバーの行動や誰がそれに価し、誰がその小さき群を構成するメンバーになるかを正確に予知することができることを私達は疑うことは出来ないけれども、そのような方法は、神の言葉が提出する選びの教理ではない。使徒たちが示そうとしているのは、個人的な予定説の思想ではない。

   それは、一つのクラスが栄光ある地位を満たすために、神の目的に定められているということであって、信仰と従順と、地上的特権などを死に至るまで犠牲にするという厳しい試練の条件に基づく選びである。

   こうして、個人的試練と個人的勝利によって、定められた個々のメンバーは選ばれ、このクラスのために神があらかじめ定めた祝福と利益を受けるのである。ロマ830栄光を与えるという言葉は、ギリシャ語のdoxagoから来ていて、名誉を与えるという意味である。教会が選ばれる地位は偉大なる名誉の地位である。

   だれもそのような偉大な名誉への望みを考えもしない程のものである。私達の主イエスさえ、最初にそこへ招かれ、それからそこへの望みを抱いたのである。聖書にはこう書かれている。

   キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは私の子、今日、私はあなたを生んだ」と言われたからお受けになったのである天の父は、このように主イエスに栄光を与えられた。

"Glorified" signifies "Honored."

 

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     そしてイエスと共に共同の相続人となるべき、選ばれる体のすべてもエホバの恵みによって栄光を与えられるであろう。その頭と同様に、教会は真理の言葉を通して霊性を神から与えられた時、その栄光を経験し始め、そして霊に生まれ、霊的存在となる時、栄光を与えられた頭のかたちになり、完全に栄光に輝くであろう。

   神がこうして栄光を与える者は完全であり、清らかでなければならない。私達は遺伝によって罪人であるので、神は私達を栄光へと召す、または招くのみならず、御子の死を通して、罪からの義認をも備えられた。それによって、私達が栄光を受け得る者となるためである。

Called, chosen,
and faithful.

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     小さき群を選ぶに当って、神は非常に広い召しを行われた――多くの人々が召される。すべての人が召されるのではない。その召しは、最初はイエスの伝道範囲内、すなわち、肉によるイスラエルに限られていた。

   しかし、今は神の僕が出会う、できるだけ多くの人々がこの特別な恵みの晩餐にあずかるために駆り立てられる(無理にひっぱってこられるのではない)。(ルカ1423)しかし、それを聞き、来る者のすべてが晩餐に価する訳ではない。婚礼の衣装(キリストが与える義)は備えられている。

   しかし、ある人々は、それを着用しないので退席させられねばならない。義の衣を着用した人々、つまり新しい性質を与えられる名誉を受け入れる人々の中にも、契約に忠誠を尽くして、召しと選びを確かなものとし得ない者がある。子羊と共に栄光の中に現われるに足る者については、召された選ばれた、忠実な者たちと呼ばれている。(黙示録1411714

The call
is conditional.

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     召しは真実であり、教会を選び高める神の決定は変わらない。しかし、この選ばれたクラスに誰が入るかは条件つきである。定められた名誉を分つすべての者は、その召しの条件を満たさなくてはならない。

   それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にもはいりそこなう者があなたがたの中から出ないように注意しようではないか。(ヘブル41)偉大なる恵みは、それを望む者、走る者に必ずしも与えられるものではないが、召された時には、それを望み、それに向って走るためのものなのである。

    神はみこころをご自分の創造に対して行う絶対的な権利と目的とを持つことを明白に証明したと私達は信ずるので、次に神のすべての恵みの授与を特徴づける原理は、すべてのものの一般的利益であるという事実に注目しよう。

There is no
blending
of natures.
     人性と霊性がはっきりと区別された別々のものであるということ、二つの性質の混合は神の計画には関係なく、むしろ不完全なものであること、一つの性質から他の性質への変化は一般的規則ではなく、キリストの場合のみに当てはまる例外であることを私達は聖書の権威に基づいて確立したからには、今度はその変化がどのような条件に基づき、どのような方法で達成されるのかを知りたいという深い興味を持つようになる。
The change
of nature
from human
to divine
is a reward.

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"He is risen."

     教会はその忠誠に
よって報酬を与えられる

教会が主と共に神性を高められるための条件は、(ペテロ14)主が神性を受けた時の条件と全く同じである。主の御跡を踏み従うことによって(ペテロ221)主がしたように、自分自身を生きた供え物としてささげ、死によってその犠牲が終わるまで、その献身の契約を忠実に成し遂げることである。 

この人性から神性への性質の変化は、福音時代に主がしたように、人間性を現在と未来の一切の利益、希望、目的と共に死に至るまで犠牲にする人々に報酬として与えられるものである。復活の時に、そのような人々は、残りの人類と共に人間の完全性とそれに伴うすべての祝福へと回復させられるのではなく、主と共に神性にあずかる者として、主の栄光と喜びに似たものとされるのである。(ロマ817テモテ212

The New Nature: Begetting,
and then
a Birth.

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Water Baptism

     新しい性質の始まりと成長は、人間の命の始まりと成長に似ている。人間の命の場合には懐胎があり、次に誕生があるように、新しい性質の場合も同様である。聖徒は、真理の言葉を通して、神から命を与えられると言われる。(ペテロ13ヨハネ518、ヤコブ118

   これは、彼らが神の命の最初の衝動を神のことばを通して神から受けることである。彼らは、あがないを信ずる信仰によって義とされ、あなたがたの体を聖なる(あがなわれ、義とされたゆえに)神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい。

   それがあなたがたのなすべきふさわしい礼拝である(ロマ121)という召しを聞く時、またその召しに従うことによって、義とされた人間性を生きた供え物として、イエスの犠牲と共に、完全に神に献身する時、それが神に受け入れられるのである。

   霊的な命は、その行為で始まるのである。そのように献身した人は、ただちに新しい(変えられた)心が命じるままに考え、行動し、人間的欲望を十字架につけるままに至るであろう。献身の瞬間から、これらの人々は、新しい被造物として神に見なされるのである。

Embryo
"New Creature" development

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     これらの胎児、新しい被造物に対して、古い物(人間的欲望、希望、計画など)は過ぎ去り、すべては新しくなったのである。胎児新しい被造物は古い人間性が、その希望、目的、欲望と共に十字架につけられるにつれて成長と発育を続ける。

   この二つの経過は、献身の時から始まり、人間の死、すなわち、その結果としての霊の誕生まで同時に進行する。神の霊がそのことばを通して神の計画を次第に明らかにするにつれ、私達の死ぬべきからださえも生かし(ロマ811)神に仕えることを可能にする。

   しかし、定められた時には、私達は新しい体――霊的な天的なすべてのものにおいて新しい神の心を持つ――を与えられるであろう。

The First Resurrection      新しい被造物の誕生は、復活の時におこる。(コロサイ118)そして、このクラスの復活は、最初の(または最上の)復活と呼ばれる。(黙示録206)私達が霊の身分を授けられた時から、霊的存在者であるかのように見なされるけれども、私達は復活の時までは、実際の霊的存在者にはなれないことを記憶すべきである。(ロマ82325、エペソ11314、ロマ61011

   私達が実際に霊的存在者となる時は、霊として生まれる時であって、もはや肉的存在者ではなくなる。霊から生まれるものは霊だからである。

Consecration      復活における霊性への誕生は、献身の時に霊の命を与えられることに始まらねばならない。ちょうど、肉体の誕生が、肉の命を与えられることによって始まるのと全く同じである。最初のアダムと同じように、肉から生まれた者はすべて地に属し、最初に命を与えられたのである。

   そのうち、ある人々は、真理のことばを通して神の霊によって再び命を与えられ、定められた時に、最初の復活にあずかり、天的なかたちに霊として誕生するのである。私達(教会)は土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう――もしそこから堕落しなければ。(コリント1549、ヘブル66

Renewing your minds – a transforming work
"I beseech you therefore, brethren,
by the mercies
of God,
that ye present your bodies
a living sacrifice, holy acceptable unto God,
which is your reasonable service."
Romans 12:1
     天的召しを受け入れることと、それに従って献身することとは、ある特定の瞬間に決められるけれども、すべての思いを神のみこころに調和させるためには時間を要する。自然にまかせれば、地に向かうものを、天に向うように次第に変えていくのである。

   この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって造りかえられ(天的性質へと)、何が善であって、何が神に受け入れられ、かつ全きことであるかを立証すべきである。と語っている。(ロマ122

   使徒のこれらの言葉は、不信仰な世界の人々にではなく、使徒が信仰の兄弟と認める人々に宛て書かれたことに注目すべきである。それが前節の言葉に示されている。兄弟たちよ、そういうわけで・・・あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。
Transformation
of character
and nature.

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Altar of Sacrifice

 

 

 

 

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    人が回心し、罪から義に、不信と反逆から神に向い信頼を置く時を指して、パウロは造りかえられると称したと一般には信じられている。確かにこれは大きな変化である。しかし、それはパウロがここで述べた変化ではない。それは品性(character)の変化であって、パウロが語ったのは、福音時代の信者に一定の条件に基づいて約束された性質の(mature)の変化である。

   そして、パウロは信者に、その条件を満たすように促したのである。もし、そのような品性の変化がすでにそれらの信者の中に起ったのでなければ、パウロは彼らを兄弟とは呼ばなかったはずである。――特に、聖なる神に受け入れられる犠牲としてささげるべき何かを持つ兄弟とは呼ばなかったはずである。なぜなら、あがないを信ずる信仰によって義とされた人々だけが、聖なる神に受け入れられる者として神から見なされるからである。

   性質の変化は、イエスがその完全な人間性を犠牲としてささげたように、福音時代の間に義と認められた人間性を生きた犠牲としてささげる人々に、未来の人間としての存在の権利と主張を、現在の人間としての満足、特権、権利などと共に、すべて捨てるように導く。犠牲としてささげる最初のものは、人間的意志である。

   それ以後は、私達は自分の意志、または他人の意志によって導かれることなく、神の意志によってのみ導かれなければならない。神の意志が自分の意志になり、人間の意志は自分のものではなく無視され、犠牲にされるべきである。神の意志が自分の意志となったので、私達は、神の見地から考え、論じ、判断しはじめる。

   神の計画は私達の計画となり、神の道は私達の道となる。厚い信仰によて、自分自身を犠牲としてささげ、その結果としてこの変化を体験した人でなければ、だれもこの変化を十分に理解することはできない。以前には、私達は罪深いものでない限り、どんなものでも楽しむことが出来た。世界のすべての良きものは、人間の喜びのためにつくられたからである。克服されるべき唯一の困難は、罪を犯しやすい傾向であった。

   しかし、献身し、変えられた人は、罪を克服する努力に加えて、現在の良き物を犠牲にし、すべてのエネルギーを神の放しにささげなければならない。そして奉仕と犠牲に忠実な人々にとっては、この世界は求刑の場所ではなく、この地上には永遠の都はないことを確実に日々認識するであろう。しかし、彼らの心と希望は、神の民のために残されている休みに向けられるであろう。その祝福に満ちた希望が持続する活力と激励の源となるであろう。

"And be not conformed
to this world;
but be ye transformed
by the renewing
of your mind,
that ye may prove what is that good, and acceptable, and perfect will
of God."
Romans 12:2

 

 

The "earnest"
of our inheritance

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     こうして献身を通して、心は新たに造りかえられ、その願望、希望、目的は人間的希望などが死ぬのに対して、霊的な約束された目に見えないものに向けられはじめる。このように変えられた人々、または変えられつつある人々は、神の霊を与えられた新しい被造物または神聖にあずかる者と見なされる。

   これらの新しい被造物と単に義とされた信者または兄弟との間にある差に注目すべきである。後者のクラスの人々は、地に属する者であって、罪から離れた彼らの希望、願い、目的は約束された万物更新の時に十分に満足されるようなものである。

   しかし、前者のクラスの人々は、キリストがこの世のものではないように、この世のものではなく、彼らの希望は、神の右に座するキリストのいる所、すなわち、目に見えない事柄に集中されているのである。人間を魅惑する地上の栄光への期待は、この天的希望を与えられ、天的約束の栄光を見、神の計画の一部を悟る人々にとっては、もはや満足すべきものではなくなる。

   この新しい神の心は、完成した神性――心と体――を継ぐことの保証である。ある人々は、神の体というこの表現に驚くかも知れない。しかし、私達は、イエスが今、父の本質の姿であり、また勝利者も彼に似た者となり、その真の御姿を見るであろう。と語られている。(ヨハネ32

   人々の体があり、霊の体がある。コリント1544)私達には、父なる神も、主イエスも体を伴わない単なる偉大なる心としてしか想像をすることは出来ない。それらがいかに偉大なる栄光なのかまだ明らかではない。

   そして私達が神聖にあずかる者となるまでは明らかとはならないであろう。しかし、彼らの体が栄光ある霊の体であることだけは確かである。

Transforming of the mind –
gradual

Change of the body – instantaneous

     人間の心から霊的な心への変化がゆっくりした過程であるのに対して、人間の体から霊的な体への変化は瞬間的なものである。(コリント1552

   パウロが言うように、私達はこの宝(神の心)を土の器の中に持っている。しかし定められた時には、その宝はそれにふさわしい栄光の器――霊の体――に納められるであろう。

Spiritual natures have a wider range of faculties
than the human.

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     私達は人間の性質が霊の性質と似ているところを見てきた。(創世記51)例えば、神が意志を持っているように、人間も天使も意志を持っている。神が神聖と記憶力を持っているように、神の有知的被造物――天使と人間も理性と記憶力を持っている。

   同じ情況の下で同じ情報をもって推論する時には、これらの異なった性質は同じ結論に達し得るのである。神性も霊性も人性も似たような精神的機能は持っているが、霊性は人性をはるかに越えた力を持つことを私達は知っている。

   その力の差は、異なった機能から生ずるのではなく、同じ機能の範囲の差と、それらが働く環境の差から生ずると私達は考える。人生は、霊性の地上の完全な形であって、霊性と同じ機能を持つが、地上的な範囲内に限られているので、それ以外のことは、神が人間の利益と幸福のために現わされない限り、知る能力も傾向も持たないのである。

神は霊性の階級の中で最高位にある。そして神とその被造物の間の距離は、いかに広大無辺であることか!私達は、神がその力のある業を私達の目前にパノラマのように現わす時、神の知恵と力と善をかすかにかいま見ることが出来るのみである。しかし、私達は完全な人間の栄光を計り、理解することは出来るであろう。

We catch
only glimpses
of the divine
wisdom, power
and goodness.

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     これらのことをはっきり心にとめて考えれば、私達は人間から霊の性質への変化がいかに成就させるのかを理解することが出来る。すなわち、同じ精神力をより高い状態へ持ち越すことによって成就されるのである。天的な体を着る時、私達はその体に属する天的な力を持ち、その体に属する思考の範囲と能力の領域を持つであろう。

献身者が体験する地的から天的への心の変化は、その性質の始まりである。それは頭脳の変化でも、その変化に伴う奇蹟でもない。変わるのは意志であり、心の傾向である。意志と感情が私達の個性を示すものであるので、私達の意志と感情が変わる時、私達は造り変えられ、実際に天的性質に属する者となったかのように見なされるのである。

   しかし、これが非常に小さな始まりであるにすぎないのは事実であるが、懐胎は常に小さいところから始まる。しかも、それは最終的に完成されるべきものの保証、または確証である。(エペソ11314

ある人々は問う。私達自身が変えられたことをどうして知るのだろうか?この栄光にあずかる者となる時、私達がかつて生き、苦しみ、犠牲をはらったと同一の存在者であることをどうして知るのだろうか?私達は、その時も同じ意識を持つのだろうか?これに対して、私達は最も確実にイエスと答える。もしキリストと共に死ぬなら、彼と共に生きるであろう。(ロマ68)私達の人間の体におこる日々の変化は、過去を忘れ、同一性*を失う原因とはならない。

A change of nature does not cause
a loss of identity.

 

     
    私達の人間の体は、絶えず変化している。科学は私達の体の構成分子は、

7年ごとに完全に変えられると証言している。だから、人間から霊の体への約束された変化は、記憶力や同一性を破壊することなく、かえって、それらの能力や範囲を増大するのである。

今や私達のものである神の心は、その同じ記憶、同じ理性の力を伴ってその時、新しい霊の体を着ることにより、その能力の果てしない高さ、深さを拡大するであろう。

記憶は私達の子供の時代からの経歴をたどり、対比によって、私達の犠牲に与えられた栄光の報酬を十分に味わうことが出来るであろう。しかし、もし、その人間性が霊のかたちをとらない場合には、これは起こり得ない。

 

 

 

 

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     これらの思想は、御子が霊的状態から人間的、すなわち人間性と地上的限界の状態へと変えられた時、どのような人間であったかを私達が理解する助けとなる。どちらの場合も、同一の存在者であったけれども、最初の状態の下では彼は霊であり、第二の状態の下では人間だったのである。

   なぜなら、二つの性質ははっきりと区別されているが、一方は他方の類似であり、従って同じ精神的機能(記憶など)は両方に共通しており、イエスは人間となる以前の(しかし人間となった後には持たなかった)自分の栄光を知ることが出来たからである。それは次のイエスの言葉によって証明される。

   父よ、世が造られる前に私がみそばで持っていた栄光で、今み前に輝かせて下さい。(ヨハネ175)そして、その祈りが答えられたことは、現在イエスが最高の霊的かたち――神性へと高められていることによって明らかである。

You who are consecrated,
to which influences are you submitting?

"...Be ye transformed."

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     もう一度、パウロの言葉に目を向けると、パウロはあなたがたは、自分自身をこの世に従わせてはならない。(do not comform)むしろ自分自身を神のかたちに造り変えなさい(transformとは言わずこの世に従わせてはならない(be not comform)むしろ造り変えられ(be transformed

   と言っていることに気づく。ここには深い意味がある。なぜなら、私達は自分自身を従わせたり、造り変えたりするのではなく、自分を従わせるように働くこの世の力、私達を取り巻くこの世の霊に服従したり、または神のことばを通して働く天的な力によって変えられるように、自分自身を神の意志に服従させたりするからである。

   献身したあなたは、いったいどちらの力に服従するのか?私達える力は、現在は犠牲と苦しみに導くが、その結果は栄光に輝く。もしあなたが、このような変化の力の下に発育するならば、何が善であって神に受け入れられ全きものであるかを日々知りつつあるのである。

そのような人々は、神の言葉は地上的、天的、両方の約束を含むけれども、後者のみが私達に属することを心に止め、すべてを犠牲の祭壇にささげ続けようではないか。私達の宝は天にあるのだから、心を常に天に向けよう。私達の召しは霊性を得るためのみならず、霊の最高位――天使より優った(ペテロ14、ヘブル14――神性を得るためのものである。この天的な召しは、福音時代に限られている。

Sky3F.jpg (2214 bytes)      福音時代以前にはなされなかったし、福音時代の終りと共に終わるであろう。完全には理解されなかったにしろ、地上的召しは、天的召しの前にすでになされ、福音時代が終わっても続くと私達は教えられている。人間として回復される人々に与えられる命とキリストの体が得ようとしている賞与、不死性は両方ともに、この福音時代の間に明らかにされている。(テモテ110

   人間も霊的性質も共に完全となる時には栄光に輝くであろう。しかしその両方は、はっきりと区別された別々のものとなるであろう。神の完成する御手の業の栄光は、無生物と有生物、すべてのものの美しい多様性を実現するばかりでなく、万物相互間と神への素晴らしい調和を生み出すであろう。

 

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